地獄に堕ちた勇者ども
第66回 
 テルアビブ・ロッド空港
1972年5月30日
奥平剛士、安田安之、岡本公三、山田修、檜森孝雄、重信房子

5月28日、懲役20年の刑期を終えて重信房子さん(日本赤軍リーダー 明大)が出所しました(逮捕は2000年)。あさま山荘事件50年の時は、ほとんどスルーしたテレビ各局も、この日は比較的大きく扱っていたと思います。

ただし、過去の経緯をサラッと流した後、囲み取材を抜粋しただけで、コメントは、ほどんどありませんでした。事件ではなく「出所」でしたから立ち位置が難しく、それにもまして、どのコメンテーターも、左翼過激派については、「悪い奴」という以外の知識がなかったのでしょう。すでに忘れられた存在なのかもしれません。


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思ったより元気そうな重信さん(中央)
右は長女のメイさん、左で仕切ってるおばさんは誰だ(ムショ仲間?)

この事件に限らず、筆者は記事よりも、ヤフコメを重視し、投稿数や、「いいね」数、アンチ数をチェックするのを常としており、それによれば、
・投稿数は高くないが、それほど低くもない
・否定的意見が一部評価するの数倍(好評価は、ほぼゼロ?)
・否定的意見の「いいね」は、アンチの10倍以上で、一部評価の場合は、アンチが「いいね」の数倍
・一部評価する意見も、彼女の「熱量」や「意欲」についてでそれ以上ではない

中には、「大勢の仲間を殺して懲役20年は軽すぎる」と、明らかに連合赤軍永田洋子氏(共立薬科大)と混同しているものも多々見られ、こちらも左翼、特に武闘組織は、十把ひとからげで「極悪」&全面否定という評価なのでしょう。

日本赤軍がやらかした事件は、ほとんどハイジャックや人質事件で、殺人は、ありません(1975年8月のクアラルンプール事件で警官1名死亡説もあるが、ガセのようだ)。単純にデータを見れば、「極悪」というほどではなく、それでも激辛な言われようなのは、
テルアビブ事件の司令塔だと思われている
・連合赤軍事件後も数年間、左翼の大事件が定期的に発生したため一般の人には区別がつかないからだと思われます。

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クアラルンプール事件

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超法規出国する坂東国男氏(京大)
坂口弘氏、松浦純一さん(関西大 赤軍派のM作戦大西隊メンバー、丸岡修さんの友人)は、人質交換に指名されるも拒否

そのテルアビブ事件から50年が経ちました。左翼を潰したのは連合赤軍・・・は、確かにそのとおり、当時、遅ればせながら(?)学生運動をやろうとしていた人や、なんとなく左翼に興味のあった人を尻込みさせるに十分なインパクトはあったものの、そこそこ気合の入った活動家や、中途半端な割には自信過剰な人(誰だ?)には、オレならもっとうまくやれるはず、と虚勢を張れる程度の余力は残されていたんじゃないでしょうか。

ところがそんな人たちをして、とても俺には真似できん、と匙を投げさせたのが5月30日に起こったテルアビブ空港乱射事件でした。わずか3名で敵地に乗り込み、チェコ製自動小銃Vz58で空港警備兵と銃撃戦の末、リーダーの奥平剛士氏(京大)は、全身ハチの巣にされて射殺、彼の盟友・安田安之氏(京大)は、手りゅう弾で自決し、遺体には首と両手首(右半身説あり)がありませんでした。
http://nishifumi.livedoor.blog/archives/20480264.html
http://nishifumi.livedoor.blog/archives/20480266.html

腹の座り過ぎた彼らの戦いっぷりは、半端な闘争やってんじゃねえよと、後に続こうとしていた人たちを委縮させたようで(重信さんは、日本の左翼の批判や沈黙は「かなりの衝撃であった」と著書に書いている)、逆にあの頃から急に世の中が軽くなっていったのは、その反作用なのか、それとも権力側の高等戦術だったのか、いずれにしても、すでに落ち目だった左翼運動は、急坂を転げ落ちるように廃れていきました。

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訓練中の奥平氏(右)と安田氏
重信さんは別行動だったが、
事件後に彼らの「手柄」を横取りした(?)ため濡れ衣が・・・

パレスチナでは、奥平氏らは英雄で、
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あちらの「靖国神社」(?)に祀られており、

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イスラエルで13年間服役した岡本公三氏は、捕虜交換で生還し、日本政府からの送還要請にも拘わらず、今もレバノン政府に庇護されている(政治亡命)。あちらでは死んだ2名以上に有名なようだ

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今でも英雄

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死者26名、負傷者73名の大惨事となるも、パレスチナ側は、その多くがイスラエル側の反撃によるものと反論している。報道はすべてイスラエル発欧米経由でどこまでが真実なのか、今となっては知るすべもない

もしも坂口氏らあさま山荘メンバーたちと、奥平氏らが入れ替わっていたら・・・ロッド空港の犠牲者は大幅に減り(坂口氏らは、一般人を殺さなかった)、一方で、あさま山荘では、報道陣が皆殺しとなって(ホントか?)左翼の聖地となり、入団希望者が殺到して(まさか?)、八方めでたくウインウインとなっていたのかもしれませんが、史実でそうならなかったのは坂口氏らの戦いっぷり(全員生け捕りにされ、誰も自決せず)にあったと思います。

警察は、その後ずいぶん仕事がやりやすくなったはずで、多くの若者たちや、筆者ら当時の子供たちも、「あさま山荘」と「リンチ」が強烈だったおかげで左翼闘争をやろうなどとは、これっぽっちも思いませんでした。そういう「功績」は、もっと量刑に入れてもよかったんじゃないでしょうか。

岸田さん、今からでも遅くない、武士の情けだー
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50年間、檻に入れるのは人としてアリなのか・・・
無罪放免にしろとは言わないんで、外出許可を出してあげてちょうだい

テルアビブ事件には、連合赤軍のリンチ殺人が大きく影響しており、本当の闘い方を自らの死をもって示す」(丸岡修さん)ことに重点を置いた自爆戦術は、欧米のメディアから「カミカゼ」と言われ、かなり不可解な印象を持たれたようです。

日本の左翼は、実戦より理論を重視する傾向が強く、情念剥き出しで理屈を排除した奥平氏は、かなり右翼的で、「観念的論争にうんざり」していたという重信さんは、「パレスチナ革命に溶解してでも現実からスタートしていこうという方向で進んだ。この考えは、パーシム(奥平氏)に強かった」と著書に書いています。

また奥平氏は、「天よ、我に仕事を与えよ」と日記に書いており、当時26歳の年齢から見ても、情熱を賭けるものが見つけられずに苦しんでいたのでしょう。ちょうど日本社会に少し余裕が出てきた時期ですから、若者たちは、単に働くだけでなく、人生をかけるに相応しい「やりがい」や「生き甲斐」を求め始めたのかもしれません。

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ちなみにテルアビブ事件までの重信さんは、ベイルート在住の邦人や大使館員と普通に交流しており、日本人会と米国大使館の野球対決の際は、大使館員と一緒に応援に行ったり(反米愛国?)、
同年輩の大使館員(同じ明大卒)が一時帰国した際には、お土産に梅干しをもらうなど、軍事から距離を置いた合法活動に専念していたと考えられます。そんな彼女の運命をも大きく変えてしまったのがテルアビブ事件でした。つかみかけた「平穏な日々」は、あの日以降、どんどん遠ざかっていくことになるのです。

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新左翼と呼ばれた武闘勢力が明らかに劣勢となった1969年以降、成功した作戦は、京浜安保共闘革命左派)の羽田空港襲撃事件(1969年9月)など少人数によるゲリラ戦に限られており、今後も運動を続けるつもりなら、合法路線でやり直すか、中央集権を諦めて複数の小部隊が各々の判断で動くゲリラ戦に活路を求めるか、各派の指導部は、非常に苦しい判断が求められていたのでしょう。

総勢20名しかいない京浜安保共闘は、数の少なさが機動性を生み、数々の政治ゲリラ闘争(宣伝目的の破壊工作)や、銃奪取闘争、脱落メンバーの処刑などを次々に実行して、極左闘争のトップランナーに躍り出ました。

同時期、赤軍派でも、よど号事件(1970年3月)から森体制が確立される12月までの数か月間は、中央軍による蜂起か、部隊ごとに動くゲリラ戦かで論争があり、蜂起を主張した森氏が実験を握ったものの、実際に行われたのは、少人数でのM作戦(万引き&引ったくり含む)や爆弾闘争でした。


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オレの電池、どこやったー
小さなことに、やたら拘った森氏

両派は合流後に壊滅し、中核派など大きな組織は、警察の締め付けで身動きが取れなくなる中、既成党派の限界を冷ややかに見ていたのが、どの党派にも属さないノンセクトラジカルと呼ばれた人たちでした。

京大には、左翼界の虎の穴(?)滝田修ゼミ(本名、竹本信弘)があり、経済学部の助手だった滝田さんが提唱したパルチザンは、党派性が薄く、京都を拠点に数人程度の小グループで活動する学生などの総称で、メンバーも流動的
なため、正確な実態は公安にも把握できませんでした。

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京大で教鞭をふるう滝田さん

テルアビブ作戦リーダーの奥平氏、彼に呼ばれてベイルートに渡った安田氏、山田修さん(京大 訓練中に水死)、檜森孝雄さん(立命館大 帰国で作戦に参加できず)らは、いずれも京都パルチザンのメンバーで、銀閣寺近くの学生下宿で暮し、居酒屋「くも助」を溜まり場とする銀閣寺アジトグループと呼ばれた人たちでした。主な活動は、東九条のセツルメント運動だったということです。

セツルメント運動とは、貧困者救援の一種で、富めるものと、貧しき者が一定の地域で支え合う精神を基本とする地味な活動でしたが、奥平氏は、
どう活動しつくしても、違和感が残るのだ。これは同情だ。同情ではなく、各々が対等に主体となって闘う道はないのか」と問題提起していました。

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東九条に在日朝鮮人部落、隣接する崇仁には同和部落があり、日本有数の被差別地区だ

もともと新左翼各派は、労働者の蜂起から革命達成という王道的展開を想定していましたが、日本経済が日の出の勢いだったこともあって、労働者を主体とした武装闘争気運は一向に盛り上がらず、それでもゴール=共産革命実現だけは不動でしたから、誰でもいいから焚きつけて戦力にしようとしたのでしょう。この時点で、「人民のため」という建前は、すでに破綻していたといえます。

ここで出てきたのが、「窮民革命論」でした。従来の革命論では、被差別部落民、在日中国・朝鮮人、アイヌ、本土で暮らす沖縄人、日雇い労働者らは、ルンペンプロレタリアートとして革命運動には必要ないか、あるいは、むしろ邪魔になる存在として扱われていましたが、労働者が立ち上がらない以上、彼らに頼るしかなく、日常的に差別を受けている窮民たちなら大暴れするはずだ・・・、今読めば、ずいぶんと差別的で見下した理論ですし、オレたちが応援するからアンタら頑張ってくれ的な意識が見られ、なんとも姑息な印象を受けます。


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運悪く読んでしまった人は、とんでもないことに・・・

提唱者は、竹中労氏、平岡正明氏、太田氏ら、当時、左翼学生に人気のあったゲバリスタ=世界革命浪人を自称する人たちで、活動家というより物書きでしたから現実性より話題性を重視していたのは間違いなく、これを真に受けてしまった人たちが後に大事件を起こすことになるのです。

また、窮民に軸足を置いた以上、それを突き詰めていけば、彼らを差別する側=資本家や大企業だけでなく一般の日本人、一般的な労働者も含めて敵ということになってしまい、そこから生まれたのが反日思想でした。こちらもけっこうな支持があったようで、「業界(左翼学生に受けそうなことを言って注目を集めようとする人たち)」では一時ブームになっていたようです。

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ブームの魁?

連合赤軍後の左翼闘争は、「ノンセクト」「少人数のゲリラ戦」「窮民革命」が絡み合って進行するわけですが、「同情」に違和感を覚え、パレスチナ闘争の庇を借りて「対等に主体となって闘う道」を模索した奥平氏に対して、「同情」から謝罪や反省を通り越して、当事者そっちのけで復讐や制裁を実行しようとした人たちが現れます。

「狼」たちの闘いが始まろうとしていました。




どうぞどこにも行かないで

そばに来ている幸せに

両手を伸ばして そっと二人で育てよう


1972年7月5日リリース「ゴッドファーザー愛のテーマ」より
https://www.youtube.com/watch?v=hFe5QYg1hEc

スクリーンショット (67)
なかなか渋い尾崎紀世彦さんのカバー