地獄に堕ちた勇者ども
番外編 秋田県大館市
2024年1月26日~?
桐島聡、大道寺将司、片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫、斎藤和、黒川芳正、宇賀神寿一
テレビがまたやらかしています。
ネットで非難轟々の「セクシー田中さん」問題について、当事者の日テレは、「最終的に許諾をいただいた脚本を決定原稿とし、放送しております」と、原作者・芦沢妃名子さんの主張と対立する内容の談話を発表しただけで、報道はプツンと途絶え、これで幕引きを図ろうとしているようです。
では、当事者でない民放各社はどうなのかといえば、こちらもダンマリで、新聞・テレビは、昔から同業者の不祥事は、余程のことがなければ報道しませんから、それを改めて認識させられるのと同時に、テレビ局の露骨なダブスタぶりは、どんどん見苦しさを増しているようです。
一方で、自民党の裏金問題については、新聞もテレビも、けっこう頑張っており、それは報道の使命というよりも、短期的には自分たちの立場やビジネスに影響しないのと、今なら多少叩いても自民党からクレームは来ませんから、気楽にやれる条件が整っているのでしょう。
つまり、テレビ各局は(テレ東を除く)、ズブズブの関係にあったジャニーズや、執拗な抗議を繰り返し受ける恐れのあった統一教会よりも、今のところ自民党を下に扱っているということで、それでも相手が牙を剥いてきたら途端に怯んで、「ジャニーズ扱い」するのは言うまでもありません。彼らに信念などなく、テレビは、日本の倫理観をぶっ壊して分断を広げている張本人という見方もありますし、単なる商売なら、放送免許は入札制にすべきと多くの人は感じているんじゃないでしょうか。
元東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーの桐島聡さん(明学大)が発見されて、テレビやネットでは、後追い報道が盛んですが、報じる側も、見る側も、50年間何をやっていたのか、どうやって逃げていたのかと、関心はもっぱらそこで、事件の動機となった思想を掘り下げた報道がないのは、当時も今も、大差ありません。
そんな中、テレ朝「モーニングショー」2月1日放送では、連続企業爆破事件の背景について、さらっとですが一応ふれており、犯行動機として、「窮民革命」を指摘して、その中心となるべき在日外国人や日雇い労働者にとっての敵は大企業であるから狙われた、としていました。
連合赤軍の母体となった京浜安保共闘(革命左派)は、女性を含めて20人ほどのメンバーで、20万人の警察と、30万人の自衛隊、10万人の在日米軍を相手に闘おうとしていましたが、東アジア反日武装戦線「狼」は、4人で1億人を敵に回そうとしていたのです。
東アジア反日武装戦線「狼」リーダーの大道寺将司氏(法大文学部)は、1966年、大阪外大受験のために北海道釧路から関西圏に出てきました。受験は大阪に行くための口実だったようで、すぐに寄せ場のある釜ヶ崎に入っており、この時点で、すでに窮民革命に入れ込んでいたことがわかります。翌67年、ジッパチ(羽田闘争)に影響されたのか東京へ移り、68年春に法大に入学して、しばらく全共闘運動(Lクラス闘争委員会)をやっていました。大学に入ったのも、学生運動がやりたかったからだといわれています。
1970年6月に日米安保が自動延長されると全共闘運動は勢いをなくし、Lクラス闘争委員会は瓦解したため大道寺氏は中退し、その後、残党メンバーを集めて反日勉強会を始めています。このとき朴慶植氏(パク・キョンシク 朝鮮総連後覚派)の「朝鮮人強制連行の記録」や、太田竜氏(爆弾教祖と呼ばれた窮民革命の提唱者)の著書が教材として使われたといいますから、彼らの「東アジア」と「反日」、そして「爆弾」は、ここから始まったとみていいでしょう。寄せ場~全共闘と、「何かが足りない」と感じていた大道寺氏の闘争に、ここで最後のピースがはめ込まれました。
大道寺氏が「日帝打倒を志す同志諸君と、その確認を共有したい」と闘争マニュアル「腹腹時計」で問題提起した文は、のっけから、「日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めとして・・・」で始まっており、「日帝は、その『繁栄と成長』の主要な源泉を、植民地人民(主に韓国朝鮮のこと)の血と累々たる屍の上に求め・・・(中略)日帝本国の労働者、市民は植民地人民と日常不断に敵対する帝国主義者、侵略者である」としており、自分たちが日本人であることを忘れたかのような文章になっているのは、元ネタが朝鮮半島発だったからでしょう。
ちなみに「日帝」は、当時の左翼活動家が好んで使った言い方で、要するに日本のことを指し、戦前の帝国主義的体質をそのまま引き継いでいるといいたかったようです。そして大道寺氏は、国家や企業だけでなく、日本国民の気質や考え方は、戦前も、戦後も、まったく変わっていないとみていたのではないでしょうか。
統一教会のカネ集めで常習的に使われた手口でもわかるように、昭和世代の真面目な日本の若者は、「贖罪」を刺激されると弱かったようで、大導寺氏やカズ(斎藤和 大地の牙リーダー)も例外ではありませんでした(「さそり」は、このラインから少し外れている?)。データがあるわけではありませんが、世界の共産主義者やアナキストで、他国への贖罪が闘争の原動力となっていたのは、おそらく日本だけだったと推測します。
そして大道寺氏は、「法的にも、市民社会からも許容される『闘い』ではなくして、法と市民社会からはみ出す闘い=非合法の闘い、を武装闘争として実体化することである」と結論付けていますから、広く大衆に訴えて共感を求める気はさらさらなく、彼らの目は、常に(「アジア人民」と彼らが呼んでいた)韓国や中国に向けられており、それが災いして三菱で大惨事を生むことになるのです。
あらためて東アジア反日武装戦線の闘いをまとめれば、
①三菱重工ビル爆破事件(1974年8月30日 狼) 8人死亡 385人重軽傷
②三井物産爆破事件(10月14日 大地の牙) 17人重軽傷
③大成建設爆破事件(11月25日 大地の牙) 9人重軽傷
④帝人中央研究所爆破事件(12月10日 狼)
これより後、桐島さんらの「さそり」が参戦し、
⑤鹿島建設爆破事件(12月23日 さそり)
⑥間組本社・大宮工場爆破事件(1975年2月28日 3班合同) 本社で大規模火災 5人負傷
⑦オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件(4月19日 大地の牙)
⑧間組江戸川作業所爆破事件(4月28日 さそり) 1人重傷
⑨間組工事現場爆破事件(5月4日 さそり)
の9回11件(1未遂)あった中で、死者が出たのは①のみ、①②③⑧で重傷者を出し、①以外では②③⑥で複数の人が負傷しています。
続いて、犯行動機に目を向けると、①③⑤⑥⑧⑨=つまり、三菱財閥、大成建設(大倉財閥)、鹿島建設(旧鹿島組で、藤田組の下請け)、間組については、過去の残虐行為を攻撃理由に挙げており、②④⑦=三井物産、帝人、オリエンタルメタル、韓産研は、現在進行形(当時)の海外進出を問題あり(経済侵略という意味)としていますから、彼らの闘争は「二本立て」で、過去の清算がより強く打ち出されていました。
具体的には、
三菱=主に日本各地にあった三菱炭鉱での虐待行為
大倉財閥=信濃川逃亡労働者殺害事件(信越電力の水力発電所建設工事での朝鮮人労働者殺害事件)
鹿島建設=花岡事件(花岡炭鉱での中国人労働者418名死亡事件)
間組=沼倉水力発電所工事での中国人労働者25名死亡事件、木曽谷の水力発電所建設工事での中国人労働者虐待死亡事件
が、犯行声明の中で挙げられています。
このうち鹿島事件(「さそり」が実行)の犯行動機とされた花岡事件は特に有名で、終戦間際の1945年6月30日、花岡炭鉱があった秋田県大館市で、鹿島建設の花岡出張所山中寮に収容されていた中国人労働者986人が過酷な労働や虐待に耐えかねて一斉蜂起し、日本人監督4名と、内通していた中国人1名を殺害した後、逃亡し、全員捕まって、のべ418名(半数弱)が死亡した事件です。
鎮圧後、さらに100名以上が虐待死し、終戦後にも死者は積み上がって、GHQによって鹿島組花岡出張所長、地元警察署長ら6名がBC級戦犯に問われて死刑、終身刑、懲役刑を言い渡されましたが、1955年(戦後10年)までには全員釈放されています。鹿島や藤田組の本社の人間は、誰も罪を問われませんでした。
この事件は、2000年11月29日、東京高裁の勧告により鹿島と原告(被害者11名と代理人)の間で和解が成立しました。内容は、鹿島側が5億円を中国紅十字会に信託して基金を設立し、全被害者が和解金(賠償金ではない)を得られるようにしていますが、986人分としては、いかにも少なく(一人50万足らず)、鹿島側が法的責任を認めたわけでもありません。
にも拘らず、村人たちが熊退治にでも行くような感覚(たぶん)で大勢駆けつけたのは、そうすることが正義と信じて多数の「空気」に流されていたのでしょう。似たようなことは、今でもみられる現象だと思います。
戦時中の不都合な事実は、全部軍部に押し付けて、一般国民は被害者だったとするのが「日本の常識」となっていますが、マスコミに煽られて軍と一体となり、盛り上がっていたのは国民だったわけで、国や組織のトップよりも、むしろ末端の人達の方が酷いことをやっていたんじゃないかという疑惑さえあります。
なら責任だってあるんじゃねえの、というのが東アジア反日武装戦線が言いたかったことのはずで、そういう意味においての「反日」なら筆者も理解は可能です。
前回も書いたように、桐島さんは、本来ならとうの昔に時効が成立し、今頃は孫に囲まれつつも、重傷を負わせてしまった当直のじいさんごめんなさいと毎朝仏壇に手を合わせる日々だったはずなのに、癌の治療もできずに苦しんで死んでいくことになったのは、大道寺あや子氏(星薬科大)と佐々木規夫氏の責任(二人とも「狼」メンバー)だと思います。
もしも彼らが桐島さんに申し訳ないと思うのなら、今からでも遅くないんで、テレビ各局に得意の「予告電話」を入れて、自分たちの動機をちゃんとテレビで流してくれるなら自首するんで成田の到着ロビーで待ってなさい、と宣言し、全国民注視の中で帰国してこそ彼らの闘争が本物だったといえるんじゃないでしょうか。
東アジア反日武装戦線は、革命組織ではなく、企業の犯罪行為を広く世に知らしめ、清算させるのが目的だったはずなのに、爆弾闘争を実行したことで、逆に、加害企業を被害者にしてしまい、「爆弾魔」「凶悪テロ犯」の汚名を着せられたまま、大道寺氏や桐島さんは他界し、片岡氏や黒川氏は、いまだ牢に入れられたままです。
あや子氏と佐々木氏が日本に戻ってきて、最後の問題提起を実行すれば、それが大道寺氏らに報いることになると同時に、左翼史研究家の筆者としては、逃げ回ってばかりいないで、バーンと最後に体を張って伝説をつくり、「ドラマ」を完結させてちょうだいと言いたいわけです。桐島問題で盛り上がっている今なら、あんなダメテレビでも(失礼)、報道せざるを得ないのではないでしょうか。
番外編 秋田県大館市
2024年1月26日~?
桐島聡、大道寺将司、片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫、斎藤和、黒川芳正、宇賀神寿一
テレビがまたやらかしています。
ネットで非難轟々の「セクシー田中さん」問題について、当事者の日テレは、「最終的に許諾をいただいた脚本を決定原稿とし、放送しております」と、原作者・芦沢妃名子さんの主張と対立する内容の談話を発表しただけで、報道はプツンと途絶え、これで幕引きを図ろうとしているようです。
では、当事者でない民放各社はどうなのかといえば、こちらもダンマリで、新聞・テレビは、昔から同業者の不祥事は、余程のことがなければ報道しませんから、それを改めて認識させられるのと同時に、テレビ局の露骨なダブスタぶりは、どんどん見苦しさを増しているようです。
一方で、自民党の裏金問題については、新聞もテレビも、けっこう頑張っており、それは報道の使命というよりも、短期的には自分たちの立場やビジネスに影響しないのと、今なら多少叩いても自民党からクレームは来ませんから、気楽にやれる条件が整っているのでしょう。
つまり、テレビ各局は(テレ東を除く)、ズブズブの関係にあったジャニーズや、執拗な抗議を繰り返し受ける恐れのあった統一教会よりも、今のところ自民党を下に扱っているということで、それでも相手が牙を剥いてきたら途端に怯んで、「ジャニーズ扱い」するのは言うまでもありません。彼らに信念などなく、テレビは、日本の倫理観をぶっ壊して分断を広げている張本人という見方もありますし、単なる商売なら、放送免許は入札制にすべきと多くの人は感じているんじゃないでしょうか。
この二人なんか、何も悪いことしてないのに連日テレビで大バッシングされ国外に逃避
ジャニーズ&統一教会は、皇室より「上」だった!
そんな中、テレ朝「モーニングショー」2月1日放送では、連続企業爆破事件の背景について、さらっとですが一応ふれており、犯行動機として、「窮民革命」を指摘して、その中心となるべき在日外国人や日雇い労働者にとっての敵は大企業であるから狙われた、としていました。
真面目そうな桐島氏
ちょっと似てる
しかし、この説明では、彼らがなぜ「東アジア」で、どうして「反日」だったのかの説明になっておらず、東アジア反日武装戦線は、大企業や資本家だけでなく、本来なら革命の主役となるべき一般の労働者も「敵」認定しており、さらには、日本国民そのものさえ否定していました。連合赤軍の母体となった京浜安保共闘(革命左派)は、女性を含めて20人ほどのメンバーで、20万人の警察と、30万人の自衛隊、10万人の在日米軍を相手に闘おうとしていましたが、東アジア反日武装戦線「狼」は、4人で1億人を敵に回そうとしていたのです。
東アジア反日武装戦線「狼」リーダーの大道寺将司氏(法大文学部)は、1966年、大阪外大受験のために北海道釧路から関西圏に出てきました。受験は大阪に行くための口実だったようで、すぐに寄せ場のある釜ヶ崎に入っており、この時点で、すでに窮民革命に入れ込んでいたことがわかります。翌67年、ジッパチ(羽田闘争)に影響されたのか東京へ移り、68年春に法大に入学して、しばらく全共闘運動(Lクラス闘争委員会)をやっていました。大学に入ったのも、学生運動がやりたかったからだといわれています。
1970年6月に日米安保が自動延長されると全共闘運動は勢いをなくし、Lクラス闘争委員会は瓦解したため大道寺氏は中退し、その後、残党メンバーを集めて反日勉強会を始めています。このとき朴慶植氏(パク・キョンシク 朝鮮総連後覚派)の「朝鮮人強制連行の記録」や、太田竜氏(爆弾教祖と呼ばれた窮民革命の提唱者)の著書が教材として使われたといいますから、彼らの「東アジア」と「反日」、そして「爆弾」は、ここから始まったとみていいでしょう。寄せ場~全共闘と、「何かが足りない」と感じていた大道寺氏の闘争に、ここで最後のピースがはめ込まれました。
大道寺氏が「日帝打倒を志す同志諸君と、その確認を共有したい」と闘争マニュアル「腹腹時計」で問題提起した文は、のっけから、「日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めとして・・・」で始まっており、「日帝は、その『繁栄と成長』の主要な源泉を、植民地人民(主に韓国朝鮮のこと)の血と累々たる屍の上に求め・・・(中略)日帝本国の労働者、市民は植民地人民と日常不断に敵対する帝国主義者、侵略者である」としており、自分たちが日本人であることを忘れたかのような文章になっているのは、元ネタが朝鮮半島発だったからでしょう。
ちなみに「日帝」は、当時の左翼活動家が好んで使った言い方で、要するに日本のことを指し、戦前の帝国主義的体質をそのまま引き継いでいるといいたかったようです。そして大道寺氏は、国家や企業だけでなく、日本国民の気質や考え方は、戦前も、戦後も、まったく変わっていないとみていたのではないでしょうか。
統一教会のカネ集めで常習的に使われた手口でもわかるように、昭和世代の真面目な日本の若者は、「贖罪」を刺激されると弱かったようで、大導寺氏やカズ(斎藤和 大地の牙リーダー)も例外ではありませんでした(「さそり」は、このラインから少し外れている?)。データがあるわけではありませんが、世界の共産主義者やアナキストで、他国への贖罪が闘争の原動力となっていたのは、おそらく日本だけだったと推測します。
そして大道寺氏は、「法的にも、市民社会からも許容される『闘い』ではなくして、法と市民社会からはみ出す闘い=非合法の闘い、を武装闘争として実体化することである」と結論付けていますから、広く大衆に訴えて共感を求める気はさらさらなく、彼らの目は、常に(「アジア人民」と彼らが呼んでいた)韓国や中国に向けられており、それが災いして三菱で大惨事を生むことになるのです。
あらためて東アジア反日武装戦線の闘いをまとめれば、
①三菱重工ビル爆破事件(1974年8月30日 狼) 8人死亡 385人重軽傷
②三井物産爆破事件(10月14日 大地の牙) 17人重軽傷
③大成建設爆破事件(11月25日 大地の牙) 9人重軽傷
④帝人中央研究所爆破事件(12月10日 狼)
これより後、桐島さんらの「さそり」が参戦し、
⑤鹿島建設爆破事件(12月23日 さそり)
⑥間組本社・大宮工場爆破事件(1975年2月28日 3班合同) 本社で大規模火災 5人負傷
⑦オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件(4月19日 大地の牙)
⑧間組江戸川作業所爆破事件(4月28日 さそり) 1人重傷
⑨間組工事現場爆破事件(5月4日 さそり)
の9回11件(1未遂)あった中で、死者が出たのは①のみ、①②③⑧で重傷者を出し、①以外では②③⑥で複数の人が負傷しています。
虹作戦=天皇暗殺計画が土壇場でとん挫し、がっくりきていた「狼」たちは、韓国から飛び込んできた朴正煕大統領暗殺未遂事件のニュースに衝撃を受けた。しかも、実行者は在日韓国人の若者だったため、彼らは、これに呼応すべく、急きょダイヤモンド作戦(三菱重工ビル爆破)を計画したが、荒川鉄橋破壊用の大型爆弾をそのまま流用したため大惨事に
続いて、犯行動機に目を向けると、①③⑤⑥⑧⑨=つまり、三菱財閥、大成建設(大倉財閥)、鹿島建設(旧鹿島組で、藤田組の下請け)、間組については、過去の残虐行為を攻撃理由に挙げており、②④⑦=三井物産、帝人、オリエンタルメタル、韓産研は、現在進行形(当時)の海外進出を問題あり(経済侵略という意味)としていますから、彼らの闘争は「二本立て」で、過去の清算がより強く打ち出されていました。
具体的には、
三菱=主に日本各地にあった三菱炭鉱での虐待行為
大倉財閥=信濃川逃亡労働者殺害事件(信越電力の水力発電所建設工事での朝鮮人労働者殺害事件)
鹿島建設=花岡事件(花岡炭鉱での中国人労働者418名死亡事件)
間組=沼倉水力発電所工事での中国人労働者25名死亡事件、木曽谷の水力発電所建設工事での中国人労働者虐待死亡事件
が、犯行声明の中で挙げられています。
このうち鹿島事件(「さそり」が実行)の犯行動機とされた花岡事件は特に有名で、終戦間際の1945年6月30日、花岡炭鉱があった秋田県大館市で、鹿島建設の花岡出張所山中寮に収容されていた中国人労働者986人が過酷な労働や虐待に耐えかねて一斉蜂起し、日本人監督4名と、内通していた中国人1名を殺害した後、逃亡し、全員捕まって、のべ418名(半数弱)が死亡した事件です。
どこまで本当なのか定かでない中国大陸の話と違って、日本の官憲によって調査され、日本の新聞が報じ、日本人証人も多数いますから、事実関係は、ほぼ間違いないと考えられます
鹿島組は、中国人労働者の分も食料や物品の配給を受けていたのに(当時は配給制)、現場でピンハネされたため、満足に食事すら与えておらず、中国人たちが捕まれば殺される可能性が高い蜂起に踏み切ったのは、このままだと確実に死ぬ、どうせ死ぬなら一か八かだ、の意識だったのでしょう。事件後に起訴され留置場に入れられた中国人の方が寮にいるより待遇が良かったという話があります。鎮圧後、さらに100名以上が虐待死し、終戦後にも死者は積み上がって、GHQによって鹿島組花岡出張所長、地元警察署長ら6名がBC級戦犯に問われて死刑、終身刑、懲役刑を言い渡されましたが、1955年(戦後10年)までには全員釈放されています。鹿島や藤田組の本社の人間は、誰も罪を問われませんでした。
この事件は、2000年11月29日、東京高裁の勧告により鹿島と原告(被害者11名と代理人)の間で和解が成立しました。内容は、鹿島側が5億円を中国紅十字会に信託して基金を設立し、全被害者が和解金(賠償金ではない)を得られるようにしていますが、986人分としては、いかにも少なく(一人50万足らず)、鹿島側が法的責任を認めたわけでもありません。
和解成立で記者会見する原告団
不充分な内容だったが、最低限の面子は保てた?
賠償金や企業の法的責任とは別に、筆者が気になったのは、中山寮から逃げ出した中国人労働者の鎮圧に、憲兵隊や警察だけでなく、地元警防団も参加し、延べ2万4千人のうち6割が一般人だったことです。つまり後の4割=1万人ほどが警官や憲兵隊だったわけで、数百人規模でろくな武器も持っていない労働者を鎮圧するには十分な数だったと感じます。不充分な内容だったが、最低限の面子は保てた?
にも拘らず、村人たちが熊退治にでも行くような感覚(たぶん)で大勢駆けつけたのは、そうすることが正義と信じて多数の「空気」に流されていたのでしょう。似たようなことは、今でもみられる現象だと思います。
ここに送られた中国人の約半数が死んだ
シベリアに送られた日本兵の死亡率は1割程度で、あれよりはるかに過酷だったようだ
シベリアに送られた日本兵の死亡率は1割程度で、あれよりはるかに過酷だったようだ
戦時中の不都合な事実は、全部軍部に押し付けて、一般国民は被害者だったとするのが「日本の常識」となっていますが、マスコミに煽られて軍と一体となり、盛り上がっていたのは国民だったわけで、国や組織のトップよりも、むしろ末端の人達の方が酷いことをやっていたんじゃないかという疑惑さえあります。
なら責任だってあるんじゃねえの、というのが東アジア反日武装戦線が言いたかったことのはずで、そういう意味においての「反日」なら筆者も理解は可能です。
大館市花岡町で毎年行われる慰霊祭
事件を記憶にとどめるために設立された花岡平和記念館
花岡事件は、たまたま戦時中に起こっただけで、直接戦争とは関係なく、催しや施設の展示が、戦争こわい、戦争はやめよう、だけで終わっていないことを望みます
しかし、そんなことを今さら言ったところで、テレビが報じるわけはなく、結局、企業と国民の法的責任は何ら問われることなく、戦時中だったから仕方ないでしょという、わかるようなわからない理由で様々な問題がうやむやになってきたのが日本の戦後史です。今後も「空気」で政策が決定され、「圧」で反対意見を封じ、逆目に出ても、だって、あのときは仕方なかったでしょ、と言い続けることになるんじゃないでしょうか。花岡事件は、たまたま戦時中に起こっただけで、直接戦争とは関係なく、催しや施設の展示が、戦争こわい、戦争はやめよう、だけで終わっていないことを望みます
前回も書いたように、桐島さんは、本来ならとうの昔に時効が成立し、今頃は孫に囲まれつつも、重傷を負わせてしまった当直のじいさんごめんなさいと毎朝仏壇に手を合わせる日々だったはずなのに、癌の治療もできずに苦しんで死んでいくことになったのは、大道寺あや子氏(星薬科大)と佐々木規夫氏の責任(二人とも「狼」メンバー)だと思います。
ノリノリのうーやん
どうしたの桐島君、嬉しそうね
とにかく明るい桐島くん
もしも彼らが桐島さんに申し訳ないと思うのなら、今からでも遅くないんで、テレビ各局に得意の「予告電話」を入れて、自分たちの動機をちゃんとテレビで流してくれるなら自首するんで成田の到着ロビーで待ってなさい、と宣言し、全国民注視の中で帰国してこそ彼らの闘争が本物だったといえるんじゃないでしょうか。
東アジア反日武装戦線は、革命組織ではなく、企業の犯罪行為を広く世に知らしめ、清算させるのが目的だったはずなのに、爆弾闘争を実行したことで、逆に、加害企業を被害者にしてしまい、「爆弾魔」「凶悪テロ犯」の汚名を着せられたまま、大道寺氏や桐島さんは他界し、片岡氏や黒川氏は、いまだ牢に入れられたままです。
あや子氏と佐々木氏が日本に戻ってきて、最後の問題提起を実行すれば、それが大道寺氏らに報いることになると同時に、左翼史研究家の筆者としては、逃げ回ってばかりいないで、バーンと最後に体を張って伝説をつくり、「ドラマ」を完結させてちょうだいと言いたいわけです。桐島問題で盛り上がっている今なら、あんなダメテレビでも(失礼)、報道せざるを得ないのではないでしょうか。
1977年10月1日、大道寺あや子氏は、日本赤軍クアラルンプール事件の人質交換に応じて超法規出国した
彼女は、何を求めて旅立ったのか・・・
彼女は、何を求めて旅立ったのか・・・
愛の甘いなごりに あなたはまどろむ
天使のようなその微笑みに 時は立ち止まる
窓に朝の光が やさしくゆれ動き
あなたの髪を ためらいがちに染めてゆく
二人に死がおとずれて 星になる日が来ても
あなたと離れはしない・・・
二人に死がおとずれて 星になる日が来ても
あなたと離れはしない・・・
1977年8月10日リリース「愛のメモリー」より
愛の記憶は、蘇るか・・・