アンダマンナイト

一筆入魂 昭和道だー

桐島聡発見2 あや子と佐々木は自首して闘え

地獄に堕ちた勇者ども
番外編 
秋田県大館市
2024年1月26日~?
桐島聡、大道寺将司、片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫、斎藤和、黒川芳正、宇賀神寿一

テレビがまたやらかしています。
ネットで非難轟々の「セクシー田中さん」問題について、当事者の日テレは、「最終的に許諾をいただいた脚本を決定原稿とし、放送しております」と、原作者・芦沢妃名子さんの主張と対立する内容の談話を発表しただけで、報道はプツンと途絶え、これで幕引きを図ろうとしているようです。

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では、当事者でない民放各社はどうなのかといえば、こちらもダンマリで、新聞・テレビは、昔から同業者の不祥事は、余程のことがなければ報道しませんから、それを改めて認識させられるのと同時に、テレビ局の露骨なダブスタぶりは、どんどん見苦しさを増しているようです。

一方で、自民党の裏金問題については、新聞もテレビも、けっこう頑張っており、それは報道の使命というよりも、短期的には自分たちの立場やビジネスに影響しないのと、今なら多少叩いても自民党からクレームは来ませんから、気楽にやれる条件が整っているのでしょう。

つまり、テレビ各局は(テレ東を除く)、ズブズブの関係にあったジャニーズや、執拗な抗議を繰り返し受ける恐れのあった統一教会よりも、今のところ自民党を下に扱っているということで、それでも相手が牙を剥いてきたら途端に怯んで、「ジャニーズ扱い」するのは言うまでもありません。彼らに信念などなくテレビは、日本の倫理観をぶっ壊して分断を広げている張本人という見方もありますし、単なる商売なら、放送免許は入札制にすべきと多くの人は感じているんじゃないでしょうか。


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この二人なんか、何も悪いことしてないのに連日テレビで大バッシングされ国外に逃避
ジャニーズ&統一教会は、皇室より「上」だった!

東アジア反日武装戦線「さそり」メンバーの桐島聡さん(明学大)が発見されて、テレビやネットでは、後追い報道が盛んですが、報じる側も、見る側も、50年間何をやっていたのか、どうやって逃げていたのかと、関心はもっぱらそこで、事件の動機となった思想を掘り下げた報道がないのは、当時も今も、大差ありません。

そんな中、テレ朝「モーニングショー」2月1日放送では、連続企業爆破事件の背景について、さらっとですが一応ふれており、犯行動機として、「窮民革命」を指摘して、その中心となるべき在日外国人や日雇い労働者にとっての敵は大企業であるから狙われた、としていました。

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真面目そうな桐島氏

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ちょっと似てる

しかし、この説明では、彼らがなぜ「東アジア」で、どうして「反日」だったのかの説明になっておらず、東アジア反日武装戦線は、大企業や資本家だけでなく、本来なら革命の主役となるべき一般の労働者も「敵」認定しており、さらには、日本国民そのものさえ否定していました。

連合赤軍の母体となった京浜安保共闘革命左派)は、女性を含めて20人ほどのメンバーで、20万人の警察と、30万人の自衛隊、10万人の在日米軍を相手に闘おうとしていましたが、東アジア反日武装戦線「狼」は、4人で1億人を敵に回そうとしていたのです。

東アジア反日武装戦線「狼」リーダーの大道寺将司氏(法大文学部)は、1966年、大阪外大受験のために北海道釧路から関西圏に出てきました。受験は大阪に行くための口実だったようで、すぐに寄せ場のある釜ヶ崎に入っており、この時点で、すでに窮民革命に入れ込んでいたことがわかります。翌67年、ジッパチ(羽田闘争)に影響されたのか東京へ移り、68年春に法大に入学して、しばらく全共闘運動(Lクラス闘争委員会)をやっていました。大学に入ったのも、学生運動がやりたかったからだといわれています。


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大道寺氏は、1975年5月に逮捕され、1987年3月に死刑判決が確定し、2017年5月、多発性骨髄腫で獄中死。享年68歳(合掌)

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往年の二枚目スター田宮二郎さんによく似ていたという

1970年6月に日米安保が自動延長されると全共闘運動は勢いをなくし、Lクラス闘争委員会は瓦解したため大道寺氏は中退し、その後、残党メンバーを集めて反日勉強会を始めています。このとき朴慶植(パク・キョンシク 朝鮮総連後覚派)の「朝鮮人強制連行の記録」や、太田竜氏(爆弾教祖と呼ばれた窮民革命の提唱者)の著書が教材として使われたといいますから、彼らの「東アジア」と「反日」、そして「爆弾」は、ここから始まったとみていいでしょう。寄せ場~全共闘と、「何かが足りない」と感じていた大道寺氏の闘争に、ここで最後のピースがはめ込まれました。

大道寺氏が「日帝打倒を志す同志諸君と、その確認を共有したい」と闘争マニュアル「腹腹時計」で問題提起した文は、のっけから、「日帝は、36年間に及ぶ朝鮮の侵略、植民地支配を始めとして・・・」で始まっており、「日帝は、その『繁栄と成長』の主要な源泉を、植民地人民(主に韓国朝鮮のこと)の血と累々たる屍の上に求め・・・(中略)日帝本国の労働者、市民は植民地人民と日常不断に敵対する帝国主義者、侵略者である」としており、自分たちが日本人であることを忘れたかのような文章になっているのは、元ネタが朝鮮半島発だったからでしょう。

ちなみに「日帝」は、当時の左翼活動家が好んで使った言い方で、要するに日本のことを指し、戦前の帝国主義的体質をそのまま引き継いでいるといいたかったようです。そして大道寺氏は、国家や企業だけでなく、日本国民の気質や考え方は、戦前も、戦後も、まったく変わっていないとみていたのではないでしょうか。


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大道寺氏の盟友・片岡利明氏
「腹腹時計」の技術編を執筆(思想編を大道寺氏が受け持った)

統一教会のカネ集めで常習的に使われた手口でもわかるように、昭和世代の真面目な日本の若者は、「贖罪」を刺激されると弱かったようで、大導寺氏やカズ斎藤和 大地の牙リーダー)も例外ではありませんでした(「さそり」は、このラインから少し外れている?)。データがあるわけではありませんが、世界の共産主義者やアナキストで、他国への贖罪が闘争の原動力となっていたのは、おそらく日本だけだったと推測します。

そして大道寺氏は、「法的にも、市民社会からも許容される『闘い』ではなくして、法と市民社会からはみ出す闘い=非合法の闘い、を武装闘争として実体化することである」と結論付けていますから、広く大衆に訴えて共感を求める気はさらさらなく、彼らの目は、常に(「アジア人民」と彼らが呼んでいた)韓国や中国に向けられており、それが災いして三菱で大惨事を生むことになるのです。


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あらためて東アジア反日武装戦線の闘いをまとめれば、
①三菱重工ビル爆破事件(1974年8月30日 狼) 8人死亡 385人重軽傷
②三井物産爆破事件(10月14日 大地の牙) 17人重軽傷
③大成建設爆破事件(11月25日 大地の牙) 9人重軽傷
④帝人中央研究所爆破事件(12月10日 狼)

これより後、桐島さんらの「さそり」が参戦し、
⑤鹿島建設爆破事件(12月23日 さそり)
⑥間組本社・大宮工場爆破事件(1975年2月28日 3班合同) 本社で大規模火災 5人負傷
⑦オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件(4月19日 大地の牙)
⑧間組江戸川作業所爆破事件(4月28日 さそり) 1人重傷
⑨間組工事現場爆破事件(5月4日 さそり)
の9回11件(1未遂)あった中で、死者が出たのは①のみ、①②③⑧で重傷者を出し、①以外では②③⑥で複数の人が負傷しています。

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虹作戦=天皇暗殺計画が土壇場でとん挫し、がっくりきていた「狼」たちは、韓国から飛び込んできた朴正煕大統領暗殺未遂事件のニュースに衝撃を受けた。しかも、実行者は在日韓国人の若者だったため、彼らは、これに呼応すべく、急きょダイヤモンド作戦(三菱重工ビル爆破)を計画したが、荒川鉄橋破壊用の大型爆弾をそのまま流用したため大惨事に

続いて、犯行動機に目を向けると、①③⑤⑥⑧⑨=つまり、三菱財閥大成建設大倉財閥)、鹿島建設(旧鹿島組で、藤田組の下請け)、間組については、過去の残虐行為を攻撃理由に挙げており、②④⑦=三井物産、帝人、オリエンタルメタル、韓産研は、現在進行形(当時)の海外進出を問題あり(経済侵略という意味)としていますから、彼らの闘争は「二本立て」で、過去の清算がより強く打ち出されていました。

具体的には、
三菱=主に日本各地にあった三菱炭鉱での虐待行為
大倉財閥=信濃川逃亡労働者殺害事件(信越電力の水力発電所建設工事での朝鮮人労働者殺害事件)
鹿島建設=花岡事件(花岡炭鉱での中国人労働者418名死亡事件)
間組=沼倉水力発電所工事での中国人労働者25名死亡事件、木曽谷の水力発電所建設工事での中国人労働者虐待死亡事件
が、犯行声明の中で挙げられています。

このうち鹿島事件(「さそり」が実行)の犯行動機とされた花岡事件は特に有名で、終戦間際の1945年6月30日、花岡炭鉱があった秋田県大館市で、鹿島建設の花岡出張所山中寮に収容されていた中国人労働者986人が過酷な労働や虐待に耐えかねて一斉蜂起し、日本人監督4名と、内通していた中国人1名を殺害した後、逃亡し、全員捕まって、のべ418名(半数弱)が死亡した事件です。

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どこまで本当なのか定かでない中国大陸の話と違って、日本の官憲によって調査され、日本の新聞が報じ、日本人証人も多数いますから、事実関係は、ほぼ間違いないと考えられます

鹿島組は、中国人労働者の分も食料や物品の配給を受けていたのに(当時は配給制)、現場でピンハネされため、満足に食事すら与えておらず、中国人たちが捕まれば殺される可能性が高い蜂起に踏み切ったのは、このままだと確実に死ぬ、どうせ死ぬなら一か八かだ、の意識だったのでしょう。事件後に起訴され留置場に入れられた中国人の方が寮にいるより待遇が良かったという話があります。

鎮圧後、さらに100名以上が虐待死し、終戦後にも死者は積み上がって、GHQによって鹿島組花岡出張所長、地元警察署長ら6名がBC級戦犯に問われて死刑、終身刑、懲役刑を言い渡されましたが、1955年(戦後10年)までには全員釈放されています。鹿島や藤田組の本社の人間は、誰も罪を問われませんでした。

この事件は、2000年11月29日、東京高裁の勧告により鹿島と原告(被害者11名と代理人)の間で和解が成立しました。内容は、鹿島側が5億円を中国紅十字会に信託して基金を設立し、全被害者が和解金(賠償金ではない)を得られるようにしていますが、986人分としては、いかにも少なく(一人50万足らず)、鹿島側が法的責任を認めたわけでもありません。

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和解成立で記者会見する原告団
不充分な内容だったが、最低限の面子は保てた?

賠償金や企業の法的責任とは別に、筆者が気になったのは、中山寮から逃げ出した中国人労働者の鎮圧に、憲兵隊や警察だけでなく、地元警防団も参加し、延べ2万4千人のうち6割が一般人だったことです。つまり後の4割=1万人ほどが警官や憲兵隊だったわけで、数百人規模でろくな武器も持っていない労働者を鎮圧するには十分な数だったと感じます。

にも拘らず、村人たちが熊退治にでも行くような感覚(たぶん)で大勢駆けつけたのは、そうすることが正義と信じて多数の「空気」に流されていたのでしょう。似たようなことは、今でもみられる現象だと思います。

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ここに送られた中国人の約半数が死んだ
シベリアに送られた日本兵の死亡率は1割程度で、あれよりはるかに過酷だったようだ

戦時中の不都合な事実は、全部軍部に押し付けて、一般国民は被害者だったとするのが「日本の常識」となっていますが、マスコミに煽られて軍と一体となり、盛り上がっていたのは国民だったわけで、国や組織のトップよりも、むしろ末端の人達の方が酷いことをやっていたんじゃないかという疑惑さえあります。

なら責任だってあるんじゃねえの、というのが東アジア反日武装戦線が言いたかったことのはずで、そういう意味においての「反日」なら筆者も理解は可能です。


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大館市花岡町で毎年行われる慰霊祭

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事件を記憶にとどめるために設立された花岡平和記念館

花岡事件は、たまたま戦時中に起こっただけで、直接戦争とは関係なく、催しや施設の展示が、戦争こわい、戦争はやめよう、だけで終わっていないことを望みます

しかし、そんなことを今さら言ったところで、テレビが報じるわけはなく、結局、企業と国民の法的責任は何ら問われることなく、戦時中だったから仕方ないでしょという、わかるようなわからない理由で様々な問題がうやむやになってきたのが日本の戦後史です。今後も「空気」で政策が決定され、「圧」で反対意見を封じ、逆目に出ても、だって、あのときは仕方なかったでしょ、と言い続けることになるんじゃないでしょうか。

前回も書いたように、桐島さんは、本来ならとうの昔に時効が成立し、今頃は孫に囲まれつつも、重傷を負わせてしまった当直のじいさんごめんなさいと毎朝仏壇に手を合わせる日々だったはずなのに、癌の治療もできずに苦しんで死んでいくことになったのは、大道寺あや子氏(星薬科大)と佐々木規夫氏の責任(二人とも「狼」メンバー)だと思います。


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いえぃ、いえぃ、いえぃ、いえぃ・・・

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ノリノリのうーやん

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どうしたの桐島君、嬉しそうね

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とにかく明るい桐島くん

もしも彼らが桐島さんに申し訳ないと思うのなら、今からでも遅くないんで、テレビ各局に得意の「予告電話」を入れて、自分たちの動機をちゃんとテレビで流してくれるなら自首するんで成田の到着ロビーで待ってなさい、と宣言し、全国民注視の中で帰国してこそ彼らの闘争が本物だったといえるんじゃないでしょうか。

東アジア反日武装戦線は、革命組織ではなく、企業の犯罪行為を広く世に知らしめ、清算させるのが目的だったはずなのに、爆弾闘争を実行したことで、逆に、加害企業を被害者にしてしまい、「爆弾魔」「凶悪テロ犯」の汚名を着せられたまま、大道寺氏や桐島さんは他界し、片岡氏や黒川氏は、いまだ牢に入れられたままです。

あや子氏と佐々木氏が日本に戻ってきて、最後の問題提起を実行すれば、それが大道寺氏らに報いることになると同時に、左翼史研究家の筆者としては、逃げ回ってばかりいないで、バーンと最後に体を張って伝説をつくり、「ドラマ」を完結させてちょうだいと言いたいわけです。桐島問題で盛り上がっている今なら、あんなダメテレビでも(失礼)、報道せざるを得ないのではないでしょうか。


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1977年10月1日、大道寺あや子氏は、日本赤軍クアラルンプール事件の人質交換に応じて超法規出国した
彼女は、何を求めて旅立ったのか・・・



愛の甘いなごりに あなたはまどろむ

天使のようなその微笑みに 時は立ち止まる

窓に朝の光が やさしくゆれ動き

あなたの髪を ためらいがちに染めてゆく 



二人に死がおとずれて 星になる日が来ても

あなたと離れはしない・・・


1977年8月10日リリース「愛のメモリー」より
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愛の記憶は、蘇るか・・・




最後のレジェンド桐島聡発見 佐々木とあや子は責任とれー

地獄に堕ちた勇者ども
番外編 
神奈川
2024年1月26日
東アジア反日武装戦線「さそり」 桐島聡、宇賀神寿一、黒川芳正

1月26日、東京地検特捜部は、政治資金規正法違反で告発された安部派幹部7人らを不起訴処分としました。この処分の是非については、検察審査会で審査されるとみられますが、大騒ぎした割には、下っ端の議員が1人捕まっただけで幕引きとなり、逃げ切りは成功したといえるんじゃないでしょうか。


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どんな不祥事があっても政権交代が起こらない「異常な状況」が固定化する中で、権力者たちが国民を舐めきっているという見方がある一方で、彼らを選んできたのは国民ですから我々が自分で蒔いた種だともいえます。

目くらまし的に出てきた派閥解消については、歴史の証人の1人として言わせてもらえば、絶対にできないと断言できます。古くは福田赳夫内閣ができたとき(1976年12月)、テレビカメラの前で、看板を下ろす作業をわざわざ取材させていたのに、しばらくすると別の事務所を借りて、新しい名前で再出発していました(清和会はここから始まった)。今回も「引っ越し」だけで終わると思います。


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「しっかりと離党せず、辞職もせず」と爽やかに語る高木前国対委員長
まったく悪びれた様子もなく清々しい?

同じ1月26日、東アジア反日武装戦線さそり」のメンバーで、連続企業爆破事件(1974年8月~75年5月)で指名手配中の桐島聡さん(明治学院大)が神奈川県の病院で「発見」されたことがわかりました。翌27日には、桐島さんが、末期の胃がんでずっと通院していたこと、今月に入って路上でうずくまっているところを通りかかった人に声を掛けられ急遽入院したこと、ここ数日で容態が悪化して現在、危篤の状態であることも判明しました。

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日本一有名な指名手配犯ついに確保
日本の事件史上、彼ほどそっくりさんの多い被疑者はいなかった

また、海外で暮らしていたが最後は日本がよかったと述べていたとか(海外渡航の形跡は確認されていない)、「内田洋(うちだひろし)」の偽名で40年間、神奈川藤沢市の土木店で住み込みで働いていたこともわかり、桐島さんのDNAサンプルはないので、本人確認するには親類からサンプルをとる必要があるとのことでしたが、29日朝、桐島さんは、入院先の病院で亡くなりました。享年70歳でした(合掌)。

報道では、「50年間逃亡」となっていますが、正確には、1975年5月23日の指名手配から48年8か月となり、渋谷暴動の機動隊員殺害容疑で逮捕された中核派の大坂正明氏(2017年5月逮捕 千葉工大)の46年を超えて、左翼史上最長記録の更新となりました(北で「満腹」のよど号は除外)。


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連行される大坂容疑者

さて、この桐島さんなんですが、左翼史研究家の筆者に言わせれば、50年も逃げ回らねばならないほど悪いことはしていないと思います(断言)。ニュース番組では、あたかも彼が三菱重工ビル爆破事件(1974年8月)に関与したかのごとき扱いになっていますが、明らかに濡れ衣で、連続企業爆破事件の責任の比重でいえば、「狼」が75%、「大地の牙」が20%、「さそり」は、せいぜい5%程度で、「殺人」という枠なら、亡くなられた8名全員「狼」の犯行です。「さそり」が参戦した1974年12月23日以降は、死者はおらず、重症者も1人しか出していません。例えれば、「狼」の闘争に、「いいね」を押してしまった程度の罪(ホントか?)だと思います。

その「さそり」で3人のメンバー中、一番若かった桐島さん(当時21歳)は、東アジア反日武装戦線全体でも最年少でしたから、下っ端中の下っ端といえますし、なまじ逃亡期間が長かったために、芸人など様々な人たちに弄られてしまい、やったこと以上に有名になってしまったと思います。

ちなみに同じ「さそり」のメンバーで、指名手配された7年後の1982年7月に東京板橋区で逮捕された宇賀神寿一さん(桐島さんと同じ明学大 歳は一つ上)は、懲役18年の判決を受けて岐阜刑務所で服役後、2003年6月に出所して社会復帰しており、桐島さんも、とっとと捕まるか、あるいは、東アジア反日武装戦線「狼」の大道寺あや子氏(星薬科大)と佐々木規夫氏が、日本赤軍の人質交換に応じて超法規出国していなければ、とうに時効が成立して(共犯者の控訴中という形で時効停止中)、自由の身となっていたでしょう。彼がこれほど有名になってしまったのは、あの二人に責任があると思います。


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シャコとよばれた宇賀神さん

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この2人の責任です

三菱重工から始まった連続企業爆破事件は、未遂も含めて12件あり、「さそり」単独で実行されたのは、鹿島建設爆破事件(同年12月)、間組江戸川作業所爆破事件(1975年4月)、間組工事現場爆破事件(同年5月)の3件です。すべて資材置き場や作業所、工事現場を深夜に狙っており、火災もボヤ程度で、鹿島と間組工事現場では、怪我人も出ておらず(現場に誰もいなかった)、ほとんど報道もされませんでした。

3班合同だった間組本社爆破事件(キソダニ・テメンゴール作戦 1974年2月28日)では、甚大な被害がでたのは「狼」が担当した9階で、ここで社員2名が負傷し、情報機器機能が集中していたため、データがすべて焼け、プログラムカードも全部壊滅し、コンピューター業務は、6月いっぱいまで4カ月間も行えませんでした。いっぽう「さそり」が担当した6階は、人的被害はなく、業務への影響も軽微だったと思われます(火災はあった)。判決文にも6階の被害状況は書かれていませんでした。


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事件のちょうど1カ月前にあたる1月28日に行われたに作戦会議で、「さそり」リーダーの黒川芳正氏(都立大人文学部 無期懲役 宮城刑務所で服役中)は、攻撃目標を工事現場にしようと提案しており、「」の大道寺将司氏(法大文学部 死刑判決を受けた後、獄中死)と「大地の牙」の斎藤和氏(都立大人文学部 以下カズ 逮捕直後に服毒自殺)が本社を狙うべきと主張したため不採用になっています。もしも黒川氏の言う通り作業所を攻撃していれば、怪我人もなく、業務にもほとんど影響は出なかったと考えられます。

江戸川作業所では、床下に仕掛けた爆弾の真上に、運悪く当直の作業員が寝ていたため全治1年3カ月の重症を負わすことになり(爆弾を置いてきたのは桐島さん)、黒川氏への判決では、殺意があったとしていますが、真夜中に河川敷の作業所内に人がいるとは普通は考えないはずで、もしもその気があったとしても、ピンポイントで狙うことは不可能に近いと思います。

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犯行現場の江戸川作業所
外部は、ほとんど壊れておらず、爆発力は小さかった

桐島さんの時効問題に話を戻せば、大道寺あや子氏や佐々木氏と共犯関係になかった「さそり」単独犯行の3件では、すでに公訴時効が成立しており、共犯関係にあった間組本社爆破事件に関してのみ時効が停止されているようです。同事件での桐島さんは、関与があったとしても見張り役程度で(爆弾を置いてきたのは宇賀神さん)大した罪は犯していませんから前述した3件の時効を待って自首していれば、4~5年で出られたんじゃないでしょうか。

また、桐島さんの容疑=韓国産業経済研究所(1975年4月 以下韓産研)爆破ですが、連続企業爆破事件の「本丸」=三菱重工ビル爆破事件で証拠が揃わなかった警察が、別件の韓産研で逮捕状を取ったという経緯があり、大道寺将司氏、大道寺あや子氏、片岡利明氏(法大文学部)、佐々木利夫氏、カズ、浴田由紀子氏(北里大衛生学部衛生技術学科)、黒川芳正氏(都立大人文学部)の7名とも、同じ容疑でした(実際には、「大地の牙」メンバーの斎藤氏、浴田氏の犯行で、この2人以外は無関係)。

韓産研前の打ち合わせ(3月25日と4月1日)には、「さそり」からはリーダーの黒川氏のみが出席し、同時期に「さそり」は、間組を再攻撃しようとしていましたから、桐島さんと事件を結び付けるものは何もなく、それは、もう一人のメンバー宇賀神寿一さん(明治学院大)にも言えて、もしも黒川氏が黙秘していたら、二人とも指名手配されなかったでしょう。


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韓産研のあったトキワビルの様子

「狼」「大地の牙」「さそり」と3班あった中で、「さそり」は一番最後に参加して、なんとなく便乗犯のように扱われていたのは間違いなく、それもあってか、一斉逮捕時の報道でも、黒川氏について書かれたものがほとんどなく、どこでどのような状況で捕まったのかも不明です。もしも、黒川氏が合同ミーティングに参加していなければ(大道寺氏が尾行されていた)、「さそり」は逮捕を免れたかもしれません。

警察やマスコミにとって、どうでもよかった「さそり」の中でも、最年少の桐島さんは、特にどうでもよかった存在でしたから、その彼が、あたかも連続企業爆破事件を主導したかのような報道は、明らかにおかしく、特に毎日新聞は、桐島さんとは何の関係もない三菱から談話をとっていました。

東アジア反日武装戦線=三菱重工ビル爆破=とんでもないテロ事件=実行者は凶悪犯という単純な図式の中で、桐島さんが絡んでいたのは、東アジア反日武装戦線の1部隊に参加していたことくらいです。また、犯行動機となった企業による戦前・戦中の不祥事について、まったく報じられないのは、事件当時も、今も、なんら変わっていません(大事なスポンサー様だし)。

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オウム真理教の地下鉄サリン事件と並んで日本のテロ史上最悪の被害となった三菱重工ビル爆破

では、「さそり」の闘争とは、いったい何だったのでしょうか。大道寺氏によれば、「さそり」は、山谷や高田馬場など寄せ場での闘いから生まれたグループだったので、作業所や工事現場を狙うことで末端の労働者に檄を飛ばし、連帯を表明したかったのではないかとしています。

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地味で暗い「さそり」の象徴、黒川リーダー。無期懲役の判決を受けたまま、49年も牢屋にいる
そろそろ出してあげたら

ひとくちに「反日」といっても、黒川氏ら「さそり」の「反日」と、大導寺氏やカズの「反日」は、あきらかに別物で、後者は、影響を受けた人たちの顔ぶれからみて、朝鮮半島に軸足を置いており、いわば「反日」闘争のための「反日」で、ネトウヨや自称保守の人達が考える「反日」とほぼ同じとみていいでしょう。日本に憎悪を抱くようになった理由も曖昧で、書物や伝聞から得た知識が高じて爆弾闘争を始めており(反日原理主義と筆者は呼んでいます)、自分自身や身近な誰かが直接大きな不利益を被ったわけではなく、国家としての理想像があったわけでもありません。

いっぽう黒川氏らの「反日」は、寄せ場の待遇改善が出発点ですから条件闘争的な「反日」で、もっといい社会や職場環境を実現したいという理想が根底にあったと考えられます。いわば、出所のはっきりした「反日」で、そういった感情は、誰にでも普通にあるのではないでしょうか(ただし、武装闘争に踏み出すかは、絶望の度合いによると思います)。


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絶望・・・

そして、東アジア反日武装戦線が壊滅し、左翼がジリ貧となって、どんどん保守化が進んだ結果、よりよい社会を目指したいとか、これはいくらなんでも変だとか、最近ではそんな意見を言うことさえ反日扱いされてますから、「反日」のハードルが昭和と比べて、はるかに低くなっていると感じます。

桐島さんの逮捕(確保)を受けて、テレビは、事実関係を報じるだけでコメントはなく(冷ややかな大ニュースといったところか)、ネットでは、大勢人を殺したのに・・・といった誤解のある意見も多く、それは重信房子
さん(日本赤軍最高指導者)が出所した際にもあったことで(連合赤軍と混同している人が多かった)、左翼=とにかく悪い奴らと単純化された認識が定着しているのと、左翼関連のニュースは、興味のある人が少なく報道価値がないと思われているのか、記事を書いている人たちも、深く調べずに適当に書いているのでしょう(たぶん)。

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2022年5月、22年ぶりにシャバに出た重信さん
服役中に4度も癌の手術を受けたのに保釈にならなかったのは、獄中で死んでほしかった、出所させたくなかった、ということだろう

ヤフコメには、逃げ切りは許されない、死ぬ前に責任とらせろとか(あや子と佐々木に言ってくれよ)、支援者も含めて重罪にせよとか、中には、病気で苦しんでザマミロ的なものもあって、99パー血も涙もない意見でしたが、権力の中枢にいる人たちは、どんな不祥事でも簡単に逃げ切れるのに、彼ら権力者の放った追手から半世紀も逃げ延びたのは、それほど悪いことなのか・・・。もしも、桐島さんが金庫破りなら(はあ?)、映画や小説で英雄的に描かれるんじゃないでしょうか。

おそらく50年間の逃亡中、桐島さんは、1日として安らぎを感じた日はなかったと想像しますが、同じ神奈川県の土木関連会社代表の話では、「仕事仲間と冗談をかわし、仲良くしていた。『うっちゃん』と呼ばれていた」「やさしい口調だった」、知人男性の話では、「『うっちー』という名でみんなと親しくしていた。音楽好きのおじさん」だったということで、それなりに楽しい思いをするときもあったのかと、ちょっと安心しました。

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うっちー58歳頃の写真

スクリーンショット (1465)

スクリーンショット (1460)
うっちゃんが暮らしたアパート
うっちー、うっちゃん、うーやん、内田くん・・・
けっこう人づき合いは広く、愛されていたようだ

返す返すも残念なのは、桐島さんに回想録を書く時間がなかったことです。逃亡中の話はもちろん、左翼史の謎だった地味で暗い(?)「さそり」の実態は、これで永遠の謎になってしまうのか、宇賀神さんは、存命のようですから、ぜひ書き残していっていただきたいと思います。



さりげないやさしさが僕の胸をしめつけた

この街で僕を愛し この街で僕を憎み

この街で夢を壊したことも

君はきっと忘れるだろう


それでもいつかどこかの街で会ったなら

肩を叩いて微笑みあおう


1975年5月1日リリース「いつか街で会ったなら」より
https://www.youtube.com/watch?v=JiC6SOnyqsw
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一斉逮捕の18日前に発売された




木之内みどり失踪と管制塔占拠事件のその後

地獄に堕ちた勇者ども
はみだし第4回 
成田、東京拘置所、 東京地裁、前橋刑務所他各地刑務所、東京九段航空局
1978年3月26日~

和多田粂雄、佐藤一郎、前田道彦と管制塔フィフティーンズ(石井和男、太田敏之、小泉恵司、児島純二、高倉克也、津田光太郎、中川憲一、中路秀夫、原勲、平田誠剛、藤田雄幸水野隆将、山下和生、若林一男)、新山幸男

1978年9月11日、木之内みどりさんが失踪しました。
木ノ内さんは、大ヒット曲こそありませんでしたが、元祖グラビアアイドルのような存在で、大学で芸能人のファンクラブができたのも、この頃からだったと思います。やせ型で都会的、当時としては、「今風の美少女」でした。


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当時人気のあった「GORO」の表紙を6度飾る

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刑事犬カール

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ドリームボールやー

この年は、4月に安西マリアさんが元マネージャーと逃避行するなど、失踪当たり年となり、木ノ内さんの相手(ベーシストの後藤次利さん サディスティック・ミカ・バンド→サディスティックス)は、既婚者でしたが、当時は不倫を問題視する声はなく、「失踪」だけが強調されていました。二人は、木ノ内さんの8枚目のアルバム「苦いルージュ」(同年7月25日リリース)のレコーディングで知り合ったということです。

二人の関係は、9月上旬には、木ノ内さんが所属する浅井企画の知るところとなり、3者面談が行われますが、その数日後、木ノ内さんは、後藤さんとともに開港直後の成田空港(管制塔占拠事件で3カ月遅れ)からニューヨークに旅立っています(3者面談が、よっぽど恐ろしかった?)。今にして思えば、ロスアンゼルスではなくニューヨークだったのも珍しく(当時のニューヨークは最果ての地だった?)、彼女のラストを飾る舞台として相応しかったと思います。

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当時の人気番組「ぎんざNOW」で「素人コメディアン道場」の審査員として毎週出演していた浅井企画の社長さんは、子ども心にも、「こわい人」という印象がある

ニューヨークまで飛んで来たマネージャーの説得にも翻意しなかった木ノ内さんは、9月30日に帰国して、空港近くのホテルで記者会見を行い、「子どものできるようなことはしていません」(ウソつけー)という名言を残して引退しました。出国時にも芸能記者が張っていたといいますから、空港建設&反対運動以外で成田空港が話題となった最初の出来事だったのではないでしょうか。

アイドルは、バージンだと信じられていた時代(今も?)に、タレントも、所詮女なのよ、という現実を突きつけた衝撃は大きく、筆者の友人は、ショックのあまり、持っていたレコードすべてを裏の畑にぶちまけ、翌日、畑のおばちゃんに、「これ、おたくの息子さんのか」と返しにこられる事件を起こしています。

「このままいると、ファンの人たちを裏切ることになると思っていた」木ノ内さんに、虚像と実態、実像との間には隔たりがあることを教えられた少年たちは、その後、夢を見ることもなく、現実的な人生を心掛けたようで、世の中は、ここらあたりから急速に保守化が進んでいきます。左翼史も、めっきり大事件がなくなって、記憶にすら残らない、小規模の闘争しか行われないようになり、さよならの季節が近づきつつあったのは、活動家たちにも分かっていたでしょう。

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♪塗れた目頭 男を誘う 物欲しそうな子猫みたいにさ・・・
「横浜いれぶん」以降、清純派から脱した彼女は、「無鉄砲」でスケベ全開(?)の色っぽい流し目(ラスト近く)を披露
失踪の予兆はすでにあった?
https://www.youtube.com/watch?v=UKcx3JOvDCE

1978年3月26日、赤ヘル三派(第四インタープロ青同共産同戦旗派)による管制塔占拠事件で、成田空港の開港は3カ月延期されることになりました。行い得る最大の作戦で、最高の結果=管制塔の占拠・破壊に成功したという割には、得られた成果はさほどでもなく、それは、軍事で勝利しても、政治や宣伝で敗北すれば、闘争全体としては、けっして勝利を得られないことを物語っていました。

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ハマスのイスラエル襲撃は、言論や政治ではどうにもならない状況が
70年以上放置されて、事件後に世界的なイスラエル批判が大いに高まりましたから、軍事作戦を政治戦や宣伝戦の巻き返しに結び付けたといえます。もしも、成田の建設反対派が管制塔占拠作戦と同等の知恵を、政治戦や、宣伝戦につぎ込んでいれば、あるいは、戦略的勝利(成田廃港、あるいは無期限延期)も達成できたかも知れません。

それでも管制塔占拠事件が与えた影響は小さくはなく、千葉県の川上紀一知事は、「政治生命をかけていたのに・・・」と肩を落としました。ただし、転んでもただでは起きないのが、この人の特徴で、翌1979年、再選を果たした選挙前に、都内の不動産業者から5000万円の献金を受ける見返りとして、千葉での事業発展に協力するという念書を書いていたことが発覚(川上知事念書事件)して知事を辞任しています。

とはいっても、約束通り便宜を図らなかったから事件が発覚したわけで、だとすれば収賄とはいえず(詐欺?)、汚職は絶対にしないという政治家としてのポリシーは感じられました。


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東京ディズニーランド誘致という功績もあるが、金権腐敗の本場千葉(失礼)なので、当然カネが動いた?

事件当日、空港警備の最高責任者である浅沼清太郎警察庁長官は、反対派を舐めきっていたのか現場を三井脩参事官(60年安保や連続企業爆破事件など、極左闘争鎮圧に絡んだ)に預けてゴルフをやっていたことが発覚し、予定していた参院選立候補はオジャンになりました。

現場で指揮を執っていた三井参事官も、第9ゲート部隊と前田隊が空港内に現れたとき、指揮を放棄して避難したため(早い話が敵前逃亡)警備本部は「解体」し(三井氏本人談)、無抵抗だった前田隊の逮捕に、ずいぶん時間をかけていました(突入が午後1時前後で逮捕が3時45分頃)。

まさに大失策でしたが、浅沼長官のゴルフのおかげで命拾いしたキャリア組は、真相を知っている人たちを全国にとばすなど(?)、かん口令を敷き、その後、三井参事官は、警察庁長官に出世しています。大ピンチが図らずも好機となって、運のいい人というのは、こういうものなんでしょうか。

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公安のロペスピエールと呼ばれた三井長官

また、成田郵便局では、開港日に合わせて発行される記念切手の初日カバー(記念切手が貼られた初日消印付のハガキ等)の押印作業をフライングで進めていたところ、管制塔占拠事件で開港が延期されたため、大きな損害を受けることになりました。新たな予定日5月20日は、本当に開港するのか見届けてから作業に着手したということです。

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こちらは、「5月20日」版
幻となった「3月30日」版は、焼却処分したことになっているが・・・

成田開港を最優先事項としていた福田内閣は、「(事件は)明らかに法治国家への挑戦であり、平和と民主主義の名において許し得ざる暴挙である」等とする「新東京国際空港問題に関する決議」を衆参両院で採択し(共産党まで賛成したようだ)、月13日、新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)」が自民と中道3党(公明、民社、新自由クラブ)の賛成多数で成立して、即日、施行されました。反対したのは、青島幸男さんと市川房枝さんの二院クラブだけでした(社会、共産などは欠席)。

これにより成田空港およびその航空保全施設等の周辺3キロメートルに限り、建築物その他の工作物等について、使用の禁止等を命ずる強力な権限が運輸大臣(現国土交通大臣)に付与され、該当施設として岩山団結小屋、三里塚野戦病院、横堀要塞等が指定されますが、実際に撤去が始まったのは、9年後の87年からでしたから、
権力側にも、多少遠慮があったようです。

開港が迫った5月5日早朝、京成スカイライナー放火事件(実行者は中核派)が起こり、スカイライナー1両が全焼し、他3両が被害を受けています。この事件で、京成電鉄はスカイライナーの運航計画見直しを余儀なくされ、JR成田エクスプレスの運航開始が1991年3月
ですから、ただでさえ遠い成田は、ますます不便な空港になりました。

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そして迎えた5月20日、ついに成田空港が開港しました。
最初の予定日3月30日が迫ってきたときには、開港まで、あと〇日といった華やかなカウントダウン報道もありましたが、このときはさすがに慎重で、もしかして、という思いもあったのでしょう。静かな始動だった記憶があります。

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地味に行われた開港式

当日、第四インターとプロ青同(共産主義労働者党の青年組織)は、「滑走路人民占拠」を画策したものの、警察のガードは固く、空港内への侵入はできませんでした。山田のレーダーサイト攻撃も試みましたが、通路の途中に大きな壕が掘られていたためトラックが進めず引き返しています。

レーダーサイト襲撃は、3・26直後にプロ青同から提案され、この時は、管制塔占拠作戦があまりにもうまくいったために見送られ、そのあと経団連の一部から、もしも5月20日が再び阻止されるようなら開港無期延期を政府に働きかける、という話がでてきたために5月13日に一度実行されましたが、機動隊と戦う前に、中継地点の造成地(ここでミキサー車に廃油を詰め込む予定だった)で、地元暴走族と揉めてしまい、警察に通報されたため、ミキサー車は没収されています。計画そのものが、いかにも付け焼刃だった印象を持ちます。


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激突、左翼対暴走族
経済的な豊かさを背景に、若者の不満を吸収して急成長した暴走族に対し、左翼はすっかり飽きられて真冬の時代に

前年から調査を始め、入念に準備された管制塔占拠作戦も、立案者の和多田粂雄さん以外は、実行部隊の人たちですら「無理」と見ていたようで、その後どうするか何も決めていませんでした。たまたま作戦が成功し、その興奮と感動が反対派を支配していたのは間違いなく、すぐに二の矢、三の矢を放たなかったことで、警備側に、十分な時間を与えてしまったのが敗因だったといえます。

6月13日、管制塔占拠事件で重症を負った新山幸男さん(山形大 第四インター 第9ゲート部隊)が病院で死亡しました。逮捕された後、数時間放置され、初期治療の遅れが致命的だったのではといわれています。新山さんは、「山大のトロツキー」と呼ばれ(暴力が凄かったらしい)、学内で恐れられていたそうです。


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1979年1月、前田隊の統一公判が始まりました。考えられる容疑は、不法侵入と器物破損ですから、昭和の時代なら、お巡りさんに大目玉くらった後、ごめんなさーい、反省しましたー、もう二度とやりませんーと言っておけば、その日のうちに釈放されたはずですが(ホントか?)、反省する素振りがまるでなかったのが災いしたのか、傷害罪(警官ともみ合った際、火炎瓶が発火して警官が火傷を負った)や航空危険罪(日本赤軍のハイジャックに適用するために立法)まで付けられてしまい、長いお勤めとなってしまいました。

判決文には、「
多数の航空機との通信阻害に伴う衝突、墜落等の事故を惹起(じゃっき)するおそれのある状態を作り出して航空の危険を生じさせた」とあり、まだ開港もしていない空港で航空機事故が起こるとは到底考えられませんから、「法を超えた」処置だったと思います。内ゲバでどんどん活動家を「廃棄処分」してくれる人たちと違って(内ゲバ事件の捜査はほとんど行われなかったという)、我々に楯突く奴は絶対に許さんという権力側の強い決意のようなものを感じさせられます。

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「獄中に入っても1年だ」(和多田さん)、「どんなに長くても3か月、うまくいけば3日(で出られる)」(前田さん)と、甘く考えていたようだ

裁判では、総指揮官&作戦立案の和多田さんが懲役10年、実行部隊リーダーの前田さんに懲役9年、戦旗派の佐藤一郎さんは懲役8年、水野隆将さん、太田敏之さんは、7年、児島純二さん、中川憲一さん、平田誠剛さん、山下和生さん、小泉恵司さん、中路秀夫さんが6年、原勲さん、津田光太郎さん、高倉克也さんに4年で、当時は殺人ですら10年未満で出られる場合も多く、極めて重い量刑だったといえます。特に佐藤さんは、現場で戦旗派の3人を激励しただけで同派の作戦リーダーと見られてしまい8年も食らうことになりました。

管制塔ビル1階で逮捕された津田さんらは、上階で逮捕された人たちより刑が2年軽くなり、14階で逮捕された小泉さんや平田さんは、16階で管制室を破壊した人たちと量刑は同じでした。分離公判を選んだ人たちにも実刑判決が下されますが、統一公判組とは本刑で1年、未決算入で1年3カ月の差がつけられています。

このとき付けられた2年余りの差をどう評価するかは意見のわかれるところですが、前田隊のうち隊長を含めた数名は、服役中に、シャバで付き合っていた女性から三下り半を突きつけられており、彼女たちにしてみれば、そんなに長く待てませんー、今度はカタギの人と付き合いますー、さようならー、といったところでしょうから、けっこう重みのある時間だったのではないでしょうか。判決を受けて、和多田さんは、「なんとか裁判所をだまくらかして、1~2年まけさせようとして、うまくいかなかったという感じです」という談話を発表しています。

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平田誠剛さんが服役中の話を綴った「もぐら道3000日」
お薦めします

和多田さんは、反対派農家の手引きもあって逮捕を免れていましたが、翌79年、部下にだけ責任を負わせられないと自首を決意し、おとなしく捕まるのは面白くないと、占拠事件の統一公判初日法廷に紛れ込んで、裁判長や検事を野次っていたのに誰も気づいてくれず、仕方ないので(?)柵を乗り越えて、「異議ありー、私は、指名手配されている和多田です」と名乗り出て、その場で逮捕されました。日本の事件史でも有数のオモシロ逮捕だったのではないでしょうか。和多田さんは、府中刑務所で服役後、1992年に出所しています。

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1982年4月 釈放直後の拘禁反応からくるノイローゼで、原勲さんが東大校舎から飛び降り自殺
横堀墓地には、原さんの墓碑があり、毎年4月第二日曜日にささやかな慰霊祭をやっているという

こうして罪も償って、禊は済んだと思っていた被告たちでしたが、それで許してくれるほど権力は甘くありません。2005年、空港公団は、民事で4384万円の損害賠償請求を行い、判決(1995年7月確定)を無視した被告に対して、法務省は、遅延損害金も含めて1億300万円(年利5%加算)の請求を通知し、給与を差し押さえました。

前田さんらは、それまで、「下手に請求することで記憶を呼び起こしても無意味だから、国や空港側は時効を待っている」との見方を示し、楽観視していましたが、2000年代ともなると、そういった思考をしてくれそうな昭和世代の年長者は、すでに引退しており、左翼もジリ貧でしたから、請求しても大事にならず、問題なしと判断されたのでしょう。何事にもみみっちい平成・令和の訪れに気づいていなかったともいえますが、あれだけ多くの精密機器類を片っ端からぶっ壊したのに、4千万円は、良心的で(?)、権力側にしてみれば、ずいぶん勉強しましたよー、これなら、ギリ払えるでしょう、といったところでしょうか。

すっかり忘れた頃になっての追い討ちに、地道な人生を歩んでいた(たぶん)被告らは、驚き、どうしたものかと連絡を取り合った結果、その年の7月から1億円カンパ運動を開始することになりました。そして、延べ2000人から1億円を集め、11月11日、前田氏が東京九段の合同庁舎にある航空局を訪れて全額返済しています。日本初のクラウドファンディングだったといわれています。

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航空局に1億円を「叩きつけ」た前田さんら

最初は和多田さんが、インター2千万、プロ青同1千万、戦旗派1千万、あとはメンバーたちの借金でまかなうという党派割り当てを決めたが、各派ともカネがなく、和多田さんは、個人的に1千万円カンパして、司令官としての責任を果たした

いっぽう前田さんは、カンパ運動のドサクサに紛れて(?)仲良くなった女性(自社の社員、カンパ運動の集会に来ていたという)と結婚している

ちなみに、その11年前(1994年2月)
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プロレス界でもインター(UWFインター)が1億円用意した(1億円トーナメント提唱)。単なる「見せ金」で、利息を払って銀行から数時間だけ借りたという

あっさり1億円集まって、メンバーたちは、口々に、「(運動を)やってよかったと思う」「生きていてよかったなぁ、いい人生だったと思う」「事務局と、インターネット(の募金活動)を支えてくれたみなさんに感謝します」といった感想をもらす中で、高倉克也さん(早大 管制塔1階で逮捕)は、「この件があって、いつかこういうこと(損害賠償請求)があると思っていて、家は買わない、銀行口座は作らない、報酬は現金でもらう、領収書は別のところのものをもらう、本当にそういうことをやっていた。権力は甘くないというのが、ずっと頭にあった」と語っていました。反体制派として国家権力と闘う気なら、それだけの覚悟が必要なのかと改めて感じさせる話です(和多田さんや、前田さんは、深刻さゼロだが・・・)。

そして、左翼武闘派が
、ほとんどすべての闘争目標を達成することなく敗れ、合法政党の共産党や社会党をも道連れにするようにジリ貧となったために、高倉さんのような人生は、しなくてもいい苦労をするはめになったと否定的に評価されるようになりました。怒りの声は上げてはならず、体制が定めたおかしなルールにも、黙ってついていくのが「正しい」とされる世の中になりました。彼らの敗退は、大きな負の遺産を残してしまったといえます。

あれから45年、人々が怒りの声を上げる時代はくるのでしょうか・・・。

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空と大地の歴史館
https://www.rekishidensho.jp/

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原さんの墓碑
 ー あの闘いを忘れない、あの時の自分を忘れない ー
と書かれている





あんたの傷を癒すのは

海鳴りよりも 土砂降りがいい・・・


1978年2月25日リリース「横浜いれぶん」より
https://www.youtube.com/watch?v=r0-9wXo94n8
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「わたし」ではなく、「あたし」だったのが、ぐっときた



成田管制塔陥落 天空の城に駆け上がれ

地獄に堕ちた勇者ども
はみだし第3回 
成田空港
1978年3月26日

前田道彦と管制塔フィフティーンズ(石井和男、太田敏之、小泉恵司、児島純二、高倉克也、津田光太郎、中川憲一、中路秀夫、原勲、平田誠剛、藤田雄幸水野隆将、山下和生、若林一男)、小貫幸夫吉鶴憲二、他前田隊5名、新山幸男、最強じいさん

1978年3月25日夜、
行動隊長の前田道彦さん(当時25歳 第四インター)ら22名(以下前田隊)は、反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)の
熱田一さん宅に集合して出撃の時を待っていました。

国内の左翼団体が被逮捕を前提とした「決死隊」を権力に放ったのは、筆者の知る限り二度しかなく、京浜安保共闘革命左派)の坂口弘氏(東京水産大 後に組織内ナンバー2)、吉野雅邦氏(横国大)らが実行した羽田空港襲撃事件(1969年9月)以来9年ぶりの出来事でした。

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前田隊が潜入したマンホール突起口
空港近辺のマンホールで開いていたのは、ここだけだったという

この作戦を可能にしたのは、空港建設の詳細な設計図があったからです。それは10年前の1968年、反対同盟のあるじいさんが抗議活動で騒然となった空港公団分室の裏口から「小便、小便」と言いながら侵入し、会議室からくすねてきたものらしく、そこには空港に通じる大排水溝、小排水溝の配置が細かく書かれていました。工事が始まった後も、このじいさんは、勝手に現場に入り込んで、マンホールと排水溝の位置をその都度確認していたそうで、警備側は、年寄りでしたから大目に見ていたのでしょう(じいさんには気をつけろ!)。

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南無妙法蓮華経のタスキが凄い!
(注、文中のじいさんかは不明です)

午後10時頃、案内役を先頭に一列縦隊で出発した前田隊は、数メートルの間隔をおいて畑の端を走り、月光の反射を避けて、みなヘルメットを脱いで、首から安全靴を下げていました。

午後11時、二期工事地区のマンホール突起口から地下排水溝内へ潜入を開始しますが、あたり一帯は第7ゲートの監視塔から定期的にサーチライトで照射されており、
侵入が始まって30分ほど経った午後11時30分頃には、まだ7名のメンバーが外で順番を待っていました。

こんな感じ?
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ジョン・スタージェス監督「大脱走」より

と、その時でした。突然サーチライトの動きが乱れ、現れた機動隊員に外にいたメンバーが見つかってしまい、1名が逮捕され、6名は逃走し、突起口の蓋を閉めようとマンホール内側から上がってきた前田隊長も、機動隊員と目と目があってしまいます。

「見つかってしまった・・・」、すぐに
機動隊が追跡してくると考えた前田隊15名は、排水路を荷物を抱えて奥へ奥へと逃走し、脱出路を探しますが、どの出口も、空港内に入っており退路はありません。最初の突起口に戻るわけにもいかず、機動隊が追ってくる気配がなかったため、とりあえず管理棟(管制塔がある)に近い排水溝出口の下で待機することになりました。


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前田隊は、排水溝内で孤立
さあ、どうする?

前田隊長が最も信頼していた小隊長2名(小貫幸夫さん、吉鶴憲二さん)を含めて7名(全員第四インター)が侵入に失敗し、いつ追手が来るかわからない状況で、気心の知れたメンバーは「純ちゃん」と呼んで可愛がっていた児島純二さんだけとなり、残ったメンバーも、プロ青同4名、戦旗派3名ですからインター8名と拮抗した中で、統制が維持できるかも定かではありません。それでも退路がない以上腹をくくるしかなく、攻撃開始時刻の翌日午後1時までに機動隊が入ってこなければ、予定通り排水溝から飛び出して管制塔の占拠を目指すことになりました。

一方、前田さんと目と目が合った機動隊員は、警備本部にそのことを報告しませんでした。報告すれば、「すぐに排水溝内に入って検挙せよ」と命じられるのは確実だったからです。東峰十字路事件(1971年9月)以来、火炎瓶で火だるまにされて死んだ警察官は4人もおり、警察のトップは、部下の命より「左翼活動家を射殺しない」ことに重点を置いていますから相手が何人いるかも判らないのに、真夜中に真っ暗な排水溝内に入るのは嫌だったのでしょう。発砲許可さえ出してくれれば、いつでも突っ込みますよと言いたかったんじゃないでしょうか。


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排水溝内にあった滝のようなところで一晩明かした前田隊
ここでやらかしたウン〇を、警察は、ご丁寧にも写真にとって、後の法廷で「証拠」として提出している(超一級資料?)

3月26日午前10時、旧菱田小学校で、赤ヘル三派を中心に4000名が集まって抗議集会が開かれました。主催は、
・三里塚闘争に連帯する会(連帯する会) 
・三里塚「廃港」要求宣言の会
・開港阻止首都圏労働者行動調整委員会(現地行動委)
で、当日正午から三里塚第一公園で反対同盟主催の抗議集会が開かれる予定でしたから一部で分裂集会との批判も出る中、反対同盟の戸村一作委員長、熱田一さん、長谷川タケさん、小川むつさんらが掛け持ちで出席しています。

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活動家らに檄を飛ばす戸村委員長

正午、デモは、旧菱田小学校を出発し、
・「連帯する会」は、すでに前日から戦闘の始まっている横堀要塞に近い横堀街道へ向かい
・「現地行動委」は、第5ゲート脇の航空保安研修センターへ
・赤ヘル三派を中心にした隊列(第8ゲート部隊)は、東に10キロ迂回して、その後西進し、第8ゲートを目指しました。

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横堀街道を進む第8ゲート部隊
戦旗派が前日の手入れで鉄パイプを押収されたため集合に時間がかかり、作戦開始の午後1時に間に合わず

このとき警察側は、警備方針を巡って分裂していました。横堀要塞を制圧すべきとする千葉県警は、最強部隊の1機と2機を要塞に張り付かせ、一方で、警視庁は、第一公園のデモ・集会を封じようとしていました。その情報をマスコミから聞いた和多田粂雄さん(作戦立案者 第四インター)は、「勝った」と思ったそうです。

午後1時、攻撃開始時刻となって、連帯する会が要塞近くで機動隊と衝突し、現地行動委は、空港東側の第5ゲートに肉薄していました。これらの動きとは別に、第9ゲート部隊が空港北から南下して、トラック2台がパトカーを追い立てるようにゲート内侵入に成功しています。

ところが、トラックのうち1台が空港署前でUターンした際、廃油の入ったドラム缶が荷台で倒れて燃え上がり、新山幸男さん(山形大 第四インター)ら数名の活動家がまき込まれて大火傷を負いました。

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第9ゲート部隊のトラック

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6月13日に死亡した新山さん

一方、排水溝内の前田隊15名は、改めて3隊に編成し直して、やはり作戦開始時刻の午後1時に、藤田雄幸さん(第四インター)を先頭に外に出ようとしましたが、マンホールの蓋を開けるのに手間取って、5分遅れの出撃となりました。しかし、この5分がとても大きな意味を持つことになるのです。

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さあ、出るぞ

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マンホールの蓋はなかなか開かなかったが、地上に出ると・・・

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春の青空には、ひばりの声と、頭上にあった信号機のカチッ、カチッと鳴る音が聞こえていたという

先頭の藤田さんが外に出たとき、機動隊員は、別方向を見ていたそうで、藤田さんに続いて、平田誠剛さん(第四インター)、津田光太郎さん(プロ青同)、原勲さん(プロ青同)、中川憲一さん(プロ青同)が飛び出し、その後、前田さんが穴の中から武器を持ち上げて搬出した後、残りのメンバーが這い出していると、拳銃を抜きながら5人ほどの警官が小走りに近づいてきました。

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前田隊が這い出してきた排水口

警官たちは、前田隊に拳銃を向けて扇状に散開し、前田隊も鉄パイプと火炎瓶をかざして5mの距離で睨み合いとなり、そこから50mほど離れた場所では機動隊の部隊が移動中でしたが、1名を除いて気づくことなくそのまま視界から消えていきました。直前に突入してきた第9ゲート部隊のおかげで、警備側は混乱しており、始動が5分遅れたことが大いに幸いしていました。

そして、全員がマンホールから出るのを待って、前田さんが「こっちだ、走れーっ!」と合図すると、あっという間に警官たちは置いていかれ、「止まれ、止まらんと撃つぞー」と叫んだものの、誰も
発砲しませんでした。

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銃を向けるだけで発砲しなかったのは、命令に制限があったからだろう

全速力で突破を図る前田隊は、管理棟に続く外周フェンス内に侵入し、さらに走って管理棟敷地内に入ると、管理ビル正面の玄関シャッターが、まるで彼らを歓迎しているかのように、ぽっかりと大きな口を開けており、しかも、ビル中に警官は一人もおらず、警官たちは、火だるまになった第9ゲート部隊の怨念に吸い寄せられるようにシャッターを開けて外に出て行った直後でした。

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管制塔正面左右二か所で火災発生

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この騒ぎに乗じて、突っ走る前田隊の前方には・・・

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天空の城がそびえ立っていた

管理ビル侵入に成功した前田隊が玄関奥のエレベーターまで来ると、ドンピシャのタイミングで扉が開き、中から記者たちが降りてきました。外の様子を見に上から降りてきたようで、彼らと入れ替わるように、前田さん、児島純二さん(第四インター)、太田敏之さん(プロ青同)、水野隆将さん(戦旗派)、藤田さんのアタック隊5名がエレベーターに乗り込み、エレベーターの手前では、津田さんがバンザイするように両手を掲げて胸を張り、鉄パイプをかざして追跡してきた警官たちを押しとどめました。

このとき一番年配(当時31歳)なのに火炎瓶を持ちすぎて遅れていた中川さんがようやく玄関に入ってくると、直後にもうひとつのエレベーターが開き、中川さん、小泉恵司さん(第四インター)、中路秀夫さん(第四インター)、平田さん(第四インター)、山下和夫さん(戦旗派)の5名が乗り込んでいます。

アタック隊と後続隊の10名を送り出して殿の役目を終えた津田さん、原さん、高倉克也さん(第四インター)、若林一男さん(第四インター)、石井和男さん(戦旗派)の5人は、続々と現れた機動隊員にボコボコに殴られ、この後、津田さんは、手錠をかけられたまま引きずられて骨折しています。ここで捕まった5人は、「登頂」成功を導いた大功労者で、おそらく前田氏らとの別れ際、アイコンタクトで、「あとは、任せろ」「必ず管制塔は陥とす、死ぬなよ・・・」と、無言の会話が交わされていたでしょう(断言)。

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前田っ、頼んだぞー

ここまでは、何から何まで順調すぎるくらいで、16階の管制室まで一直線だと思っていたら、前田さんら5人が乗っていたエレベーターは7階で止まり、そこで鉢合わせた二人の女性が悲鳴を上げて逃げていくのを見た児島さんは、初めて自分が「犯罪者」であると悟っています。一方、中川さん、平田さんらの後続隊は、7階でうまくエレベーターを乗り換えたようで、階段で16階を目指す前田さんらを追い越して先に13階に着いています。

平田さんらは、階段でさらに上階を目指しますが、14階の鉄製扉には鍵がかけられていて、びくともせず、だったらと手前にあったマイクロ通信室に入って、そこの機械類をハンマーと火炎瓶で壊していると、何者かが階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきました。

機動隊か・・・と身構えていると、上がってきたのは前田さんらで、再び14階の鉄製扉に戻って、ガツン、ガツンと激しく大型ハンマーを打ちつけながら、「開けろー、開けんかーっ、卑怯ものー」と中にいる職員さんたちを威嚇して開けさせようとしますが、相手にそうさせたいのなら、もっと知恵を使うべきでした。


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おばあさんよ、開けてちょうだい・・・
前田氏は、オオカミほど賢くなかった?

らちが明かないとみた前田隊は、14階の踊り場からベランダに出て、各派の旗を垂らしていますが、なぜか第四インターの旗だけなかったのは、前夜マンホールに入れなかった人たちが持っていたからでした。肝心なところでいつも忘れ物するのが、第四インターの文化だといわれているようです。

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管制室(16階)を挟んで、屋上には避難した管制官、14階に前田隊

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アタック隊を送り出し使命を終えて14階のベランダでのんびりくつろぐ(?)後詰め部隊

午後1時20分、工学部で機械に強い中路さんがベランダに備え付けられたパラボラアンテナとマイクロ通信室をつなぐ導波管をハンマーで断った後はやることがなく、各自がばらばらに動く中で、太田さんは、パラボラアンテナを支える鉄骨によじ登ってそこから上階を覗っていました。

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確かに登れるが、これを登るのは、かなり勇気がいる

午後1時22分、管制室の窓ガラス外側にある幅50~60cmほどのキャットウォークに取りついた太田さんは、窓ガラスをバールで壊し始めますが、窓は外側に張り出しており、一歩間違えば、真っ逆さまに60m転落する断崖絶壁です。また、管制室に使われていたガラスは、そう簡単に割れるものではなく、しかも二枚重ねになっていて、それでも何度かバールを打ちつけていると、傷がつき、ひびが入って、ついには穴が開きました。

ちなみに管制室で使用されていた窓ガラスは、前夜マンホール侵入に失敗した小隊長の小貫さんが働く日本板硝子社のもので、小貫さんは、後に同社の組合委員長に就任しています(前田隊がぶっ壊したので追加注文に成功した?)。

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管制室キャットウォークは、オーバーハングで反り返っていた

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危ないってー

とうとう管制室への道が開け、前田隊長が全員に上がってくるよう指示を出すと、小泉さんは、「いやだめだ。ここを守らないと、機動隊がくる」と答えたそうで、ここでもチームプレーを発揮して、小泉さん、平田さん、中路さん、山下さんは、14階ベランダに残りますが、中川さんだけ、ちゃっかり上に上がっています(そもそもこの人は、津田さんらの1階チームだったという話もあり、14階にいたこと自体が?)。

このとき機動隊員7名が14階にいたのですが、反対側のテラスに出たため、前田隊を捕捉できずに行き違いになっていました。もしも鉢合わせていれば、前田隊は、管制室へは行けなかったかもしれません。

ここからは、破壊活動オンリーとなり、管制室に置いてあったテレビでは、高校野球中継の途中でテロップが流れ、画面が切り替わると成田の管制塔が映っており、あろうことか、管制室を片っ端からぶっ壊している自分たちの姿が生中継されていました。
その状況にますます凶暴化した(?)前田隊は・・・

重要書類をぶちまける
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よしなさいってー

報道ヘリにVサインする
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やめなさいってー

窓に切り紙を貼る
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ダメだってー

落書きする
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怒られるって、絶対にー

・・・と、不埒な悪行三昧となり、

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ダメ押しで、バコン、バコン・・・とやった結果

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こういう状態になってしまいました

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管制塔を間に挟んでヘリが見える
報道各社が空中戦だ

子供のころ、お父さん、お母さん、先生たちから、こういうことは絶対やっちゃあいけませんと言われてきたことを全部やってしまったようで、しまいには空港関係者から泣きそうな声で、「困ります。そこには大切な機械がいっぱいあるんだから壊したりしないでください。早く出てください」と内線電話がかかってきました。

やめてくれー
suku
こんなに泣かせてしまって、どうするんだ前田隊!

また反対同盟は、妨害電波にのせて
pi
ピンクレディーの曲を流していたという

♫ナリタの地下の秘密 くすねて逃げて行った
あいつはどこにいるのか 盗んだ図面かえせー
う~ウォンテッド(指名手配)

kyan1
キャンディーズのさよならコンサート(4月4日)が迫っているのに、なぜピンクレディーなんだ、ひどいじゃないかー

午後1時40分、遅れてやってきた第8ゲート部隊は、前田隊の大暴れを下から見上げることになり、アドレナリンが急激に上がって暴発寸前になっていました。とはいっても、作戦目標は、すでに達成されましたから、ゲートを無理に突破しても逮捕者を増やすだけで、いまさら突っ込む必要はないのですが、それでは現場は収まらず、「突っ込ませろ」「いや、ダメだ」で司令部と押し問答となり、じゃあ、ちょっとだけよ、となって、空港内に300人が雪崩れ込んでいます。

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遅刻したが、暴れないことには収まりがつかない第8ゲート部隊
ゲートのはるか手前で機動隊に補足されると覚悟していたが、歩けど歩けど機動隊は現れず、やすやすとゲート突破
警察は、いったい何やってたの?

しかし、ついに発砲を開始した警察と戦うだけの武器はなく、火炎瓶も底をついて、第8ゲート部隊は撤収し、逮捕者は、前田隊を含めて168名に上りました。「一人でも殺したら負けだぞ」と警備本部に徹底させていた後藤田正晴氏(元警察庁長官、当時衆院議員)は、後年、「ピストルにあたって死ぬ者がいなくて本当によかった」と述懐したそうですが、それはもちろん活動家の命を心配したわけではなく、政治的な、あるいは自身や警察の責任問題を回避できたという意味で、東峰十字路事件、渋谷暴動(1971年11月)、あさま山荘事件(1972年2月)と、機動隊員が多少死んでも、相手を殺しさえしなければ負けたことにはならないという方針を堅持し続けた後藤田氏は、副総理に出世していきました。

悪の限りを尽くした(?)前田隊でしたが、警察がレンジャー隊員を動員して窓から突入してきた際は、あえて抵抗しませんでした。突入させじと窓際の攻防となれば、はずみで機動隊員が転落死するやもしれず、そうなれば、罪は重くなって、ネガティブキャンペーンにも利用されますから賢明な選択でした。

しかし、空港建設に反対し、開港を絶対に阻止するというのなら、屋上に避難していた空港職員さんたちに「協力をお願い」して籠城するのもありだったかもしれません。あさま山荘と違って目的がはっきりしており、反対運動の存在自体は認知されていましたが、反対派農民がなぜそこまで怒っていたのかは、国民には知られておらず、それをアピールすると同時に、権力側を交渉(開港の無期限延期)の場に引きずり出す絶好機だったからです。彼らは、軍事が目的化し、目標到達へ、より重要となる政治戦、宣伝戦を明らかに軽視していました。ただ、そうはいっても、人質をとって籠城となれば、刑期は×1.5以上となり、はたして、そこまでの覚悟はあったのかという問題もでてきます。

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管制室の隅で固まる前田隊(赤ヘル)
手前の黒い影が機動隊で警棒でポカリ
4分20秒あたりから逮捕シーン

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午後3時45分頃、御用となった前田隊長だが、一点だけ注文をつけるとすれば、このイデタチだと、なんとなく・・・

dokk
これと似てないか?

「見た目」にも拘ってほしかった


夕刻に真っ暗な室内で逮捕された連合赤軍に対して、前田隊は、まだ陽の高いうちに、みんなに見えるようにと(たぶん)ガラス窓の際で捕まり、暗い事件の連続となった昭和後期の左翼史を明るく締めくくる爽やかなフィナーレ(ホントか?)となりました。もしも、東大安田講堂攻防戦の前に、前田隊が暴れていれば、左翼史も、いや、日本も、一皮むけていたかもしれません。

10年遅かったぞ、前田隊!



甘い罠につられ 鉄の扉あけちゃいけないよ


不道徳なやつが云うには 一度キミを泣かせたい


だからさ かわりに お願い ハートをください・・・




1978年2月5日リリース「赤ずきんちゃんご用心」より
https://www.youtube.com/watch?v=VyQkccOwWrc
https://www.youtube.com/watch?v=MTaDlEkYF4E
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その後、この曲は、メンバーたちによって固く封印されたという
人生最大の黒歴史とみなされたようだが、けっこういい曲かも(足パカパカがよほど嫌だった?)

リリース翌日から横堀要塞の攻防戦が始まる





イスラエルはレッドマン? 民意はカネで買う時代

レッドマンをご存じでしょうか。
昭和中後期の人気子供番組「おはよう!こどもショー」(日テレ 1965年11月~80年9月)で、初期の同番組を支えたキューピーちゃん(石川進さん)、ロバくん(愛川欽也さん)、ガマ親分(加藤清三さん、星一徹の声もやっていた)らの降板が決まり、1972年4月から半年間、5分間のコーナーで放映されていました。

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第二次怪獣ブームに乗って登場

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右はピンちゃん(楠トシエさん)

内容は、「ウルトラファイト」(TBS 1970年9月~71年9月)とほとんど変わらず、スタジオではなく原っぱや造成地で、レッドマンと怪獣が対決するわけですが、違う点もいくつかあって、プロレス風の実況がなく、コーナーの前後に怪獣おじさんが登場して解説するのと(当時のテレビロードショーを意識したスタイル)、残酷なフィニッシュが多かったことでした。

レッドマンは、レッド星からやってきた平和を愛する戦士ということになっていましたが、あまり戦う気のなさそうな怪獣に襲いかかって、明らかに勝負はついているのに串刺しにしたり、崖から突き落としたり、すでに虫の息となった怪獣に、さらに攻撃を続けるその姿は残忍そのもので、後年、ネット上で「赤い通り魔」と呼ばれるようになりました。


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グシャ、グシャ、グシャ
死んでる怪獣を何度も突き刺す

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グサっと、怪獣は死んだが、

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ずるずる引きずって、

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崖からポイっ(なんで?)

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この二匹もやっぱり・・・

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崖からポイっ

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もう死んでるのに・・・

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歴史は繰り返します。あれから半世紀、レッドマンが蘇えったのでしょうか。ガザ地区への軍事侵攻秒読みとなったイスラエルです。

地上戦の目的は、ハマス掃討という建前ですが、真の目的は侵攻地域の永久占領と、そこへのユダヤ人入植にあるのは間違いなく、おそらく今回のドサクサに紛れてガザだけでなく、他のパレスチナ人居住地域でも同様の作戦が行われるんじゃないでしょうか。イスラエルは、パレスチナとの共存など眼中になく、オスロ合意を反故にして、大目標であるパレスチナ人居住区の完全消滅&領土の最終確定に向かって、粛々と軍事作戦を続けていくのでしょう。民族浄化政策といってもいいかもしれません。

gaza

そんな中、いつもは害にしかならない橋下徹さん(ド失礼)が、何があったのか、もの凄くいいこと言ってたので驚きました。どこか体でも悪いんでしょうか。22日朝のフジ「日曜報道 THE PRIME」で、橋下さんは、ハマスのテロを非難しつつも、「僕の認識では、イスラエルの入植活動もテロ行為」と言い切り、地上戦絶対反対を主張して櫻井よしこさん、宮家邦彦さんと激論を闘わせていました。

筆者は、この橋下発言に100%同意しますし、ネットユーザーの多くも、同じような認識らしく、11日、
イスラエル大使館が公式のX(旧ツイッター)アカウントで、「日本が歴史の正しい側に立つ時です」と呼びかけた際も、「どちらも正しくない」「同じ穴の狢」といった意見が目立っていました。

hasimo
ここで一句
散りそうで なぜか散らない うばざくら
散らぬなら 散るまで待とう うばざくら
お粗末

また、11日放送のTBS(BS)「報道1930」に、重信房子さん(元日本赤軍最高指導者)の娘メイさんが出演したのにも驚きました。「ずっといじめられてきた子が初めてやり返した」等と、パレスチナ側の言い分を代弁しています。

番組では、彼女の素性は紹介されず、ジャーナリストとしての出演でしたが、左翼史研究家(?)の筆者から見ても、よく出したなあと思っていたら、イスラエル大使館がさっそく、「テロリストの娘をなぜ出演させるのか」と猛抗議していました。

番組中、彼女の言動に過激さや、暴力志向は感じられず、やじ馬的な視点からも、何を喋るか聞いてみたいと思うのが普通で、聞いたうえで、共感するか、否定するかを判断すればいいんじゃないでしょうか。テロリストといっても、それはイスラエル側から見たときの話で(両親がパレスチナ解放人民戦線PFLP元メンバー、そのためメイさんは、子供の頃から中東各地を逃げ回る生活だった)、それをもって出演させるな、喋らすなでは、言論封殺だと思います。


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彼女の後見人は、右翼の始祖、玄洋社・頭山満の孫・興助氏で、今回の出演もそのラインかもしれない。
2001年12月、日本の公立小学校で講師となり、「憎しみからは、何も生まれない」という視点で授業を行った際も、イスラエル大使館の抗議で頓挫している

いっぽう今年G7議長国でもある日本政府は、5か国(米英独仏伊、カナダは不参加)の共同声明(イスラエル支持、ハマス非難)には加わらず、8日、岸田首相は、X(旧ツイッター)で、テロという表現は使いませんでした。ハマスの攻撃をテロとするなら、1948年の建国以来イスラエルが行ってきた無差別攻撃をどう扱うかという問題に直面しますから、これは賢明な判断だったと思います。

ところが11日、すぐに日和って、「テロ」を使い始めたのは、いかにも日本的で岸田さんっぽかった(?)のですが、同時に「すべての当事者に最大限の自制を求める」とも書き加え、松野官房長官も、「双方への働きかけを強化し、事態の鎮静化に向けて尽力していく」とするなど、あくまで中立の立場を崩していません。22日発表のカナダを加えた欧米6か国声明にも日本は参加しませんでした。

いつもは米国の決定に無条件で追従する日本政府が、主要先進国の中では唯一、中立の立場を堅持していますから、イスラエル側から見れば、かなりパレスチナ寄りの姿勢に見えるのではないでしょうか。

matuno
どっちも悪いとしつつ、イスラエルをけん制
パレスチナ問題だけは、なぜか日本政府の判断は、いつも正しい

日本外交がパレスチナの立場に理解を示すようになったのは、1973年10月、第4次中東戦争~オイルショックからで、このときイスラエル支持の欧米諸国と同類扱いされた日本は、アラブの産油国から石油輸出禁止対象国に指定されてしまい、慌てて親アラブ政策に転じて、「イスラエルの全占領地からの撤退を求める」との官房長官談話を発表し、高校野球の表彰式曲(ユダヤ戦士を称える曲)も差し替えられています。

石油欲しさに親分米国さえも裏切った変わり身の早さは見事で、米国ファーストの安倍さんの時代ですらアメリカを非難する国連決議(2018年12月、米国トランプ大統領がイスラエルのエルサレム首都移転を容認したことへの非難)に賛成していますから、50年前の決定は、今でも受け継がれているのでしょう。国家戦略ゼロの日本外交にあって、極めて珍しい例だと思います。http://nishifumi.livedoor.blog/archives/20480239.html

eru
米国非難決議はトルコが提案し、当時からアメリカの軍事力、政治力に期待していたウクライナは、投票に参加しないことで間接的に米国支持の立場をとった。賛成128、反対9、棄権・不参加56

これらを鑑みれば、日本の政治も言論も、今のところは、パレスチナの立場にも理解を示して、力による現状変更を認めないという国際法の精神を順守していく立場のようですが、これがはたして、いつまで続くのかは、きわめて「?」と言わざるを得ません。

ヨーロッパ最大級のテクノロジー会議「ウェブサミット」を主催するコスグレイブCEOが16日、「ハマスのやったことは極悪非道な行為だ。イスラエルには、自国を守る権利はあるが、国際法を破る権利はない」とSNSで投稿したしたところ、ユダヤ系の創業者を持つメタ社やGoogleの親会社のアルファベット社、Amazonなど大手IT企業は、11月にポルトガルのリスボンで開催される次回の「ウェブサミット」への不参加を表明しました。コスグレイブ氏は、謝罪しましたが事態を収拾できず、21日にCEOを辞任しています。

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しなくてもいい謝罪までしたが、辞任するはめに

25日、国連安保理で、「ハマスの攻撃が理由なく起きたわけではないと認識することも重要だ」「パレスチナの人々は、56年間にわたり苦しい占領に置かれてきた。その苦境を政治的に解決したいという希望は消えつつある」と発言したグテーレス事務総長に対して、イスラエルは、テロを容認している等として辞任を要求しました。

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強く出れば、相手は引く
いつもこの手?

といっても、
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この侵略行為をどう説明できるの?

両氏の発言は、米英を除けば、おそらく世界で主流な見解と見られますが、イスラエルの正義を信じる側の人にとってはそうではないらしく、グテーレス事務総長に対してイスラエルは、
極めて激しい、というより罵りに近い口調で批判していました。自分たちの利益に反する意見を言う者は、徹底的に排除するということなのでしょう。

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アントニオ・グテーレス氏
1949年ポルトガルのリスボン生まれ、リスボン工科大工学部を卒業、1995年から2002年までポルトガル首相として東ティモール危機の解決に向けた国際的な取り組みに深く関与。同時に、社会主義インターナショナル(反共、反新自由主義を基本とした社会民主主義政党の国際機関)でも活躍しているので、日本の自称保守の人たちに攻撃されるかも

ユダヤ系の言論弾圧といえば、日本では、「マルコポーロ事件」(「ナチ『ガス室』はなかった」と掲載したため廃刊となった)が有名で、欧米主要国では、「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)には疑問がある」と発言しただけで罪を問う法律があるのも(議論さえも犯罪になる)彼らの圧力が影響しているのでしょう。ユダヤ人のホロコーストへの執着は、それがイスラエル建国の建前になっているからだと思います。

ちなみに、ドイツを中心に数十か所あった強制収容所でアウシュビッツとマイダネク(どちらもポーランド)以外の施設(主に大戦後米英占領地区)では、計画的な大量虐殺はなかったことが事実認定されており、ホロコーストに関する疑義には、生産ラインが滞りがちだった大戦後期のドイツ軍需工場(アウシュビッツは軍需工場だった。大戦後ソ連占領地区)で労働者(ユダヤ人)をはたして大量虐殺するだろうか、ガス室の鍵が内がけ式だった、あるはずの数百万人もの遺骨や遺骨の残骸・廃棄場所が発見されていない、など様々な疑問点が指摘されていますが、ネット検索では、簡単にヒットしない仕掛けになっているようです。


maru

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日本にもあるホロコースト記念館(広島県福山市)

これまでユダヤ系の人たちは、圧倒的な経済力を背景に、メディアと政治を動かして、自分たちに有利な情報だけを「正しい」ものとして定着させてきた中で、今のところ日本は、政治的にも、言論でも、ユダヤの影響圏外にいるといえるんじゃないでしょうか。

しかし、圧倒的な経済力とは程遠い統一教会やジャニーズ事務所相手ですら、しなくてもいい忖度をわざわざして、相手を強く、大きく育ててしまった日本のテレビ局ですから、ちょっと美味しい餌をぶら下げられれば、あるいは、ちょっと厳しい抗議が来ただけで、あっさりパレスチナ側の主張や立場を締め出してしまうのは容易に想像できる話です。報道しない自由を全面的に行使するんじゃないでしょうか。

ジャニーズでは、BBCという外圧があって、ようやくテレビも動きだし(テレ朝は、いまだ籠城?)、統一教会では、安倍元首相暗殺というテロ事件によって、テレビも渋々報道するようになりました。

BBC

しかし、パレスチナ問題では、欧米の主要メディアは絶対に動きませんから外圧はなく、とすれば、残された手段は、テロだけ、ということになり、実際、ハマスの攻撃によって、いかにイスラエルがこれまで国際法を無視し、国際約束を反故にしてきたかが毎日のように放送されることになりました。これをはたしてテロリストの思う壺として非難していいものなのでしょうか。

そんな中、日本の自称保守コメンテーターの人たちには、最近イスラエル寄りの発言が目立つようになりました。主に安倍応援団と呼ばれた人たちで、安倍さんの死によって、安倍さんの手から離れ、最近は、場合によっては自民党からも離れるようで、今回も、自民党政府の外交方針(中立堅持)を批判していますから、ビジネスとして特定の人の意見を強く代弁する集団に育ちつつあるという見方を筆者はしています。金儲けとしてロビー活動をやっているのではないでしょうか。

今後、もしも橋下さんが静かになり、メイさんがテレビから完全に追放され、冷静で中立的な分析をする中東情勢の専門家たちの姿が画面から消えた時、日本のテレビはユダヤ資本の軍門に下ったと見ることもできますが、軍門に下らなくても、勝手に気をまわして自粛するのが日本メディアですから、もっと質が悪いといえるでしょう。橋下さんの論調が、「あれっ?」と思うほど転換されたときは要注意だと思います。


hasimot
橋下さんを観察すれば、日本の言論動向が予測できる?

ところで、旧約聖書(ユダヤ教の教典。キリスト教、イスラム教もいまだに採用)には、神の言葉として、「もしソドムの街に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、街全部を(滅ぼさずに)赦そう」(創世記18章)との一文があり、これをガザに置き換えれば、彼らは、神の教えに反しつつあるといえますが、「正しい者」=「ユダヤ教を信じる者」と訳せば、神の教えに忠実であるとみることもできます。

聖書(旧約聖書を否定せず、拠り所とするキリスト教、ユダヤ教から派生したイスラム教も含む)には、自分たちが信じる「神」に従う者は「善」、異教を信じる者は「悪」であり、「敵」であり、徹底的に討ち滅ぼさねばならないと書かれているのです。